愛されているということ ルカ19章1~10節

2021年7月11日礼拝説教 「愛されているということ」 (ルカ19章1~10節)

 

皆さんは、神様の愛に満たされていますか?愛されていますか?

「はい」と元気よく答えられる人は幸せですね。

クリスチャンになると、朝めざめた時に、まず神さまにお祈りするようになります。

どんな祈りから始めるかは、非常に大事なことです。

私たちは福音派に属していますが、現在の福音派の源流を作りだしたと言われているジョン・ウェスレー、18世紀イギリスのリバイバル運動を起した大伝道者をご存知でしょうか?

そのジョン・ウェスレーは、、毎朝目覚めて祈る時、いつも7つのことをチェックしたそうです。

①いつも喜んでいるか 

②絶えず祈っているか 

③すべてのことを感謝しているか

④欲張っていることはないか 

⑤恐れていることはないか 

⑥常に神の愛を感じているか

⑦語ること行うことは、神に喜ばれているといえるか

 特に6番目の神の愛を感じているか?

私も神さまから「あなたは愛されている」ことを確認、意識して、毎日生活をしているかどうかが、本当に大切なことではないかと思わされています。

朝一番に神さまの愛を確認して始めるすることは、心の健康上もとてもよいことだと思いますが、

      

  今朝は、聖書の中でとてもよく聞く話の一つ、ザアカイという一人の人物に焦点を当てて、愛されているということはどういうことか、みことばから学んでみたいと思います。

今朝は、4つのポイントで、みことばから教えられたいと思います。

 

まず最初に、この話の背景や当時の状況を理解するために3つのワードを確認します。

 エリコ  エルサレムの北東27キロあまり 海面下250㍍

 紀元前8千年前に最古の町が建てられた。旧約聖書ではヨシュアのエリコ攻め

古くから良質の泉があり、緑に包まれた美しいオアシスです。 

あらゆる種類の野菜、果物がとれた町です。バルサムオイル名産で輸出の税収が多かった

 何より交通の要所、ターミナルで政治上も経済上も重要な町で、中心に大きな税関があった。

 当時10万人近くの人が住み、多くの取税人がいた。

取税人  今日の税務署の役人というものではなく、サラ金の取り立てのような感じだったでしょう。

ローマ帝国の税金(租税、関税)を取り立てる徴税請負人、集金人でした。

ローマ帝国は、ユダヤ人からの税徴収のため、ユダヤ人を雇いました。 

ローマ帝国にとっては、自動的徴税システム、確実な収入源です

取税人は、ローマ人など異邦人と接触するため、同胞ユダヤ人から「売国奴」「汚れた者」とよばれ、「罪人」「遊女」と同じように軽蔑されていました。

彼らはまた、不正な取り立てで、過剰な利幅をとって私腹を肥やしていたので、ひどく憎まれていました。 

  ルカ2章1節 ローマ初代皇帝アウグスト(オクタビアヌス)の勅令 

「徴税のための住民登録をせよ」本籍地登録だったので、ヨセフとマリアが160キロも歩いてナザレからベツレヘムに向かいました。

その時、多くのユダヤ人が取税人として採用され、その中に若きザアカイ青年もいたのかもしれません。イエスさまと20歳以上の年齢差が考えられます。 

そしてその頃、イエスさまが誕生しました。それから30年余り後の話です。

 いちじく桑の木

いちじくの木ではなくて、桑の木です。いちじくのような小さい実をたくさんつけるので、いちじく桑の木と呼ばれていたようです。ただその実はとても小さく、決して商品にならない実でした。たいていは虫食いになり、そのまま放置されたようです。食べる物がない貧しい人々が、これを食べて飢えをしのいでいたと言われています。枝が四方に張って登りやすい、冬でも大きな葉が落ちない常緑樹です。

もしかするとザアカイも幼い頃よく登り慣れて、その実を食べていたのかもしれません。

 以上のことばを踏まえながら、ザアカイに現わされた神様の愛の4つの特質をみていきましょう。

ザアカイが愛されていることの一つは

1.選ばれている(覚えられている)

 ・5節 いきなり「ザアカイ、急いで降りてきなさい」と名前を呼ばれています。

①名前を呼ばれる

ザアカイとよく似たことばで、ザカールというヘブル語「覚える」ということばがあります。

ザアカイの名前が、イエスさまに知られていた、覚えられていたのです。 

ザアカイはイエスさまに強い関心を持っていました。しかし、イエスさまの方から、信じられないことですが、声をかけてもらった。しかも名前でよばれたわけです。

名前を覚えてもらっているのは、実にうれしいものです。

自分の尊敬する方に名前を覚えてもらっていた時、私たちも非常に感激します。

私に関心をもってくださる、知ってくださるというのが感じられます。

    

またいちじく桑の木は、冬でも葉がいっぱい残る木、常緑樹なので、いちじく桑の大きな木の葉で隠れたザアカイの姿はよく見えなかっただろうと思われます。

逆に上からこっそりイエスさまを見ようとするには絶好の場所だったのでしょう。

だから、イエスさまが立ち止まって木の上を見上げて「ザアカイ」と名前呼ばれるとは、びっくり仰天だったでしょう。大変な驚きで慌てふためくザアカイの姿の様子が滑稽です。

②孤独の世界

7節に「罪人」と呼ばれているので、ザアカイは町の嫌われ者、のけ者でした。

「売国奴」と呼ばれ、「汚れた者」「罪人」と自分も自覚してきた。

遠い昔にユダヤ人の誇り捨ててしまっていた。もはやユダヤ人ではない。

ディスカウントされてきたザアカイの心にあったのは、孤独感疎外感だったでしょう。

「地位名誉あっても、誰からも認められない。」「誰も相手にしてくれない」「居場所がない」
 
取税人の長というトップの地位についていながら、ザアカイの孤独、さみしさはいかばかりだったのでしょうか?    

神さまにも見捨てられたとザアカイは、感じていたことでしょう。

 

ところが、ザアカイがすでに失った、自分で捨ててしまったと思っていた「選び」というも

のを、イエスさまは、見捨ててなかったのです。

ザアカイが完全にあきらめしまっていても、神さまはあきられていなかった。神さまの選びは変わっていなかったのです。

9節 「アブラハムの子」と言われています。これは二つの意味があります。

①アブラハムの子孫である選ばれたユダヤ人、イスラエルの民、神が祝福された民の子。 

②アブラハムの信仰を受け継ぐ者、選ばれた信仰の子である。

 ザアカイの名を、イエスさまは選びの子として「覚えておられた」です。  

愛されていることは、選ばれ覚えられていることです。

選ばれるということは、他の人との比較で特別にということではなく、神の愛の対象として、永遠の昔から、選ばれていのちを与えられたということです。

選ばれている、覚えられていることは、愛されていることの土台です。

祝福されている

   5節 「泊まることにしてあるから」直訳は、泊まらなければならない どうしてもそうしなければならない、英語でmastという必然のことばです。

   イエスさまのザアカイへの愛が、ザアカイのところに泊まらなければならなくさせているという意味です。

一度も会ったことがないのに、アポもありません。強引です。

しかも「急いで降りてきなさい」という命令です。

泊まらなければならないという必然のことばを聞いて、ザアカイは何を考えたでしょうか?

私は、ザアカイの脳裏に一瞬、自分の大豪邸が浮かんだのではないかと思いました。

大豪邸であるけれど、不正な脅し取ったものばかりで建てた家、中も豪華だけど、不純なものばかり。全部見られて暴かれてしまう。

でも、そんなことどうでもいい、あの憧れのイエスさまがお泊りくださる。うしろめたさを吹き飛ばしてしまうほど、とにかく、めちゃくちゃに嬉しい。大喜びでお迎えしたのです。

祝福するということばはもともと「誰かの善いことを言う」という意味から出たことばです。

ですから祝福するのは、その人の存在を喜ぶことです。愛されていることの承認です。

そして、イエスさまが泊まられる、滞在されることは大きな祝福を受けることです。

食事も共にされた、ザアカイはきっと盛大な宴会を開いてもてなしたことでしょう。

そしてザアカイは、イエスさまを自分の家に迎え入れることによって、救いという大きな大き

な祝福をいただいたのです。

イエスさまを家に、心に迎え入れることは、「あなたは愛されています」という声を聞くこと

です。

  みことばの中にある祝福の声「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」

(ルカ3:22)

 「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43;4)

 私たちは、神さまに愛されている声を聞いているでしょうか?

 私の存在のすべて、生まれてから死ぬまで、愛されています。という祝福を受けているでしょうか?

与えられた、生かされた人生すべてを、神さまの祝福という視点で見る、理解する。人生の

暗い部分も明るい部分も、過去も現在も未来もすべて神の祝福と知ることが大切なことです。

 イエスさまが家の中に、そして心の中に来てくださったことによって、今現在のザアカイが祝福されただけでなく、過去の全くの汚点としかいいようのない、真っ黒な過去も祝福されたのです。神の祝福は、わたしたちの過去や現在、未来いつまでも変わらないということです。

もう一つ注目したいみことばは、10節の「救いがこの家に来ました」です。

ザアカイの救いが、家族全体に及びました。ザアカイの家族のことは一切わかりません。

しかし、イエスさまの与える祝福は、家族全体の祝福につながるということです。

「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」

私たちは、信仰が自分だけの祝福にとどまらず、家族や親族、友人知人への祝福につながっている、拡がっていることを覚えたいと思います。

ですから神さまがどんなにか私たちに祝福を与えようしておられるか、その祝福に目を留めていく、その祝福の中を生きていく歩みをしたいと思います。

そして祝福という視点から、神さまが、私という個人を家族を、いかに深く愛されているか

を受け止めていきたいのです。

3.傷を受ける(裂かれる)

ザアカイという名前は、清い、正しいという意味がもともとあって、日本流では「清」「正」という名前です。

生まれた時から両親の願いは、清く正しい生き方をしてほしいというものだったでしょう。

ところがザアカイは悪の道に入りました。ザアカイ少年にいったい何があったというのでしょう。

 3節、背が低い、身体上のハンディに悩み苦しんだ、いじめを受けたのでしょうか?

また、いちじく桑の小さな実でも食べるほどの貧しい生活を強いられたのでしょうか?

どのような幼少時代を過ごしたのか、子どもの時の孤独、いじめなど推測の域を出ませんが、

どこかの時点で、自暴自棄になったか、墜ちていったのでしょう。 

「なぜ」「どうして」と人生のろう、怒りがあった、人間不信もあった、お金に頼るしかない。

 ザアカイが、取税人の仕事を選んだ背景、理由が少し想像できるでしょうか?

      同胞ユダヤ人を裏切ってまで、貧しい人からも不当な税金を取り立てることを、正当化させた

     ものは、いったい何だったのでしょうか?

成功、財産、権力を握ることが、彼のアイデンティティーを支える方法だったのでしょう。

そして、彼は、とうとうエリコで取税人のトップに登りつめたのです。

しかし一方、そこに心傷つき、ずたずたになったザアカイの姿が見えるのです。

3節「群衆のために見ることができなかった」

邪魔されて見ることができない状態が続いたという意味です。

誰もザアカイを前に出してくれなかった。行かせてくれなかった。いやがらせでした。

何とかして懸命にイエスさまを見ようとするザアカイに対する妨害行為でした。

ローマ帝国に身を売った者、民族の誇り捨てた者、裏切り者、罪人

そんな人間にイエス様を見る資格などないという群衆の声です。

    

人は誰でも、傷を持って生きています。

ザアカイと同じように背が低いというような外見上のコンプレックスでも苦しみます。

心の中でも、自分はだめだ、生きる価値がない、良いところが一つもないという内なる声におびえます。

      受けた傷に対して、私たちはどうすればよいのでしょうか?

      外見だけでなく、心の内側も、ハンディを背負って生きていかざるをえないという、その重荷

をどう受け止めていけばいいのでしょうか?

 じっと我慢して慣れる、耐えるしかないのでしょうか?

突き抜けることができるまで待つしかないのでしょうか?

※星野富弘さんの初期の作品に、こんな詩があります。

「わたしは傷をもっている。でもその傷のところからあなたのやさしさがしみてくる」(神様の)やさしさがしみてくるという詩があります。

与えられた傷は、神さまの愛が浸み込んでくる、神さまの愛が現れる泉だと気づかれたのです。

この世の世界では、傷というものは障害でありマイナスです。嫌で避けたいものです。

しかし、イエスさまの世界では、「傷」は信仰に導き、神の愛を知らせるためのものです。

※「暗闇の中にある宝」という言葉があります。

人は恐れや失敗という暗闇にいる時に学んだことは、永遠に失われることはないというので

す。最近は「うつ」を発症している人と接する機会があるのですが、ダビデにしてもモーセ

であっても、ナオミ、ハンナ、エリヤ、エレミヤ、ヨナなどもみな、うつという「暗闇」、

傷つきを体験している中に宝を見出しています。

      ※東京基督教大学(TCU)では、stand in the gap(破れ口にキリストの平和を)という理念があります。エゼキエル書には「破れ口に立つ」ということばがありますが、イエスさまが、弱い者、貧しい者、病いにある者など人生の破れ口で苦しむ人たちに、一日中、心を砕いてこられたように、わたしたち教会の伝道も、そこに使命があるように思います。

この話に出てくるいちじく桑の実も、成熟する前に、実の一つ一つに傷をつけると虫食いな

      しに熟するようです。傷つけることで、みごとに熟するのだそうです。

       ※他の果物でも聞いたことがあります。

  また「傷」は光が当たると、反射してキラキラと輝きます。ダイヤモンドがそうです。

 

 ザアカイは、イエスさまが泊まってくださった。

愛する子という祝福の声で、孤独や軽蔑、見捨てられ感という深い傷、暗闇に向き合うことができたのではないでしょうか? 

イエスさまの愛を受け、自分を肯定し、受け入れ、許すことができたのです。

傷を通して神さまの深い愛を悟ったのです。

傷を受けるということ、裂かれるような体験は、愛されている者の資質ではないでしょうか?

4.選ばれ、祝福を受け、受けた傷を癒され、イエスさまの愛を知ったザアカイは変わりました。

  そしてザアカイは、与える者、ささげる者となりました。これが4つ目の特質です。

8節「しかし」とガラッと新しい展開に移っています。

「立ち上がり」進み出ました。このことばは、明確な悔い改め、方向転換をしました。

「主よ。ご覧ください。」と固い決意をあらわします。

「施します」「返します」とはっきりと意志をあらわします。

「だれからでも、だまし取った物は」だれかから私が、何かだまし取ったならと訳せます。

自分の下に代理店がいっぱいあって、どれだけだまし取ったかわからない地位にあったということでしょう。

 財産の2割以上は寄付、捧げてはならないというのが、律法の決まりでした。

 しかし財産の半分を施しました。

人から盗みとったもので元のまま返す場合は、2倍にして返すよう規定になっていました。

しかし、だましとったものを4倍も償いをしたのです。

ベテラン取税人の計算細かいザアカイの姿はもはやありません。

※実際ザアカイの自分で積み上げてきた財産は、どうなったのでしょうか?

仮定:1億円の財産 半分 5千万円を貧しい人に施すと5千万円残ります。

         だまし取ったものが財産の何割かによりますが、財産の半分だったら

5千万円×4倍=2億円返すことになります。1億円の借金です。

2割でも4倍で8千万円返すことになります。マイナス3千万円です。

1割であれば、4千万円返すことになり、1千万円残ります。1割ではないでしょう。

だまし取ったものが全財産の8分の1以上あれば、ザアカイは破産するのです。

ザアカイは、財産を投げ出すばかりか、借金覚悟、破産覚悟だったのです。 

30年あまり必死で蓄えてきた財産を、一晩、いや夜の夕食の一時間で、すべて投げ捨てて

しまう劇的な変化です。

このザアカイの行為は何を意味しているのでしょうか?

何がザアカイをこんなに変えたのでしょうか? 

①イエスさまの愛が先行。

イエス様に無条件で愛され、全人格的に自分が受け入れられた時、凍てついていた心が解

けた。罪をはっきり認め、悔い改めるだけでなく、無償で、ただで自分を与えることができる負債を背負ってでも与えることができる。ということです。 

 ローマ1:14 パウロは「負い目のある者です」と言いましたが、ザアカイも全く同じになったのです。清い人、正しい人、ザアカイの復活です。

②愛されていることを知った時、過去の暗い経験、深い傷は輝きを増す。

 愛の光に照らされ、深く刻まれた傷の部分が、反射して輝くのです。

 貧しい人、悲しんでいる人、孤独な人に与える、施すという輝きです。

想像の域ですが、幼い頃、あるいは貧しかったのかもしれません。

いちじく桑の木によく登り小さな実を食べなければならないほど、貧困だったのかもしれません。

 しかし今や、貧しい人々に対して使命が与えられたのです。傷が使命に変わりました。

イエスさまがしてくださったように、理解し、受容し、友となる使命です。

      

愛されることによって、与える喜びをザアカイも持てるようになったのです。 

与えるというと彼自身の意思によるように感じるかもしれませんが、正確には、「与えられる」

イエスさまの愛によって、奪い取る者から与えられる者に変えられたということです。

後になってザアカイは、カイザリヤの司教 マッテヤ(使徒1:26) 伝説

5.では最後、まとめとして、この話は、私たち一人一人に何を語っているのでしょうか?2つ確認。

  ①イエスさまの思いと私の思い

7節を見てください。

7節は不自然です。7節から8節のつながりがおかしい。

6節でザアカイの家に入って行くシーンで、8節につながっていくところです。

しかし、7節で、ルカはなぜか後ろを振り返り、群衆の様子を書いています。

ここだけ群衆に視点を当てています。

ここでルカは、何を伝えたかったのでしょうか? 

 イエスさまがエリコを訪れたのは、この時初めてだったのです。

そんなイエス様が、この人に会わなければならないと、心を留め、予定を変えてまで、訪れ

お泊まりになり、一緒に食事をされようとした(選ばれた)一人の人、ザアカイを「罪人」だと、イエス様を慕ってついてきた群衆が裁いています。

7節「客となられた」は、壊すとか崩す、空しくするという意味がある言葉です。

イエスさまが空しく、ザアカイの客になられたというのです。破壊的な行為だというのです。

群衆はザアカイの客となるのは、空しい行為だとつぶやき、不平を言い続けたのです。

罪人の男のところに客となったと、結局は、イエスさまご自身を非難しているのです。

それは、絶対に泊まらなければならないというイエスさまのご意志と全く反対のことです。

イエスさまがOKとしているのに、NO、だめだと裁く。

そんな自分が群衆のなかにいないでしょうか?人を「罪人」と裁く自分がいるのです。

イエスさまの歩まれた道、語られた教えは決して人の非を突くことにはありません。

教会は、ある意味で、「傷ついた者」「破れ口」がある者が、主によって呼び集められた共同体といえるでしょう。

行き詰り、失敗、挫折、屈辱、辛い体験など、私たちもザアカイと同じ、傷ついた弱い存在であることを変わりありません。

イエスさまが中心である教会は、人を裁くという重荷を放棄しています。そしてそこに居場所を見つけ、慰められます。

②イエスさまとの出会い、救いの必然性

イエスさまとザアカイの出会いは必然のものでした。

 3節「イエスがどんな方かを見ようとした」ここに捜すということばが使われています。

10節「失われた者を捜して救うため」の捜すと同じことばです。

  人生は出会いで決まると言われます。

捜すザアカイと捜すイエスさまの出会いの場所が、いちじく桑の木であったのです。

じゃまされて見ることのできない状態が続いたのですが、でもザアカイはあきらめることをしませんでした。ただでさえ大人が人の前を走ることはありませんでした。木に登ることも、大人として恥ずかしい行為でした。税関のトップのザアカイは異常行動しても、何とかしてイエスさまを懸命に熱心に見ようとしたのです。

「見ようとした」はずっと以前から、強い求め、求道の心が強くあったことをあらわしています。

また、5節の「急いで降りてきなさい・・今日は」の「今日は」ということばは、

「今日、聖書のこのみことばが実現しました」「主の恵みの年、恵みの時代が始まった」今日というという日です。

イエスさまは失われた人を探し続けてきたし、待ちこがれてきた。でもここで今日実現した。

だから「急いで降りてきなさい」なのです。

失われた人を探して救うために、イエスさまは一日中手を差し伸べておられる方です。

また、どうしても泊まらなければならなかったのはこれからエルサレムに向かって登って行き、あと一週間後に迫った十字架にかけられる前にしなければならない、神さまの重要な救いのご計画、必然性があったからです。

 十字架前の大事な大事な一日一泊を、イエスさまはザアカイと過ごすのです。

どうしても求めているザアカイを救わなければならなかった。

まさにザアカイとは、一期一会の出会いでした。

私たちも必然性と緊急性を持って、イエスさまに救われたのです。

そこには想像を超える並々ならぬ神の愛があふれています。

神様がわたしを愛したい、愛しているという強い熱意が迫っているのです。

ザアカイから、愛されている者の3つの特質「選ばれる」「祝福される」「傷を受ける」を見てきました。それは「与える」ためでした。これは聖餐式の象徴です。

  「選ばれる」は取ること、祝福して後これを裂き、与えられたのです。

私たちの人生を投影しているようです。私たちは与えるために、神に愛されているのです。

  まとめになります。

 神に愛されている者として生きることは、神の主権のもとで、神の栄光のために生かされることなのです。

 私たちはみなザアカイです。愛されるために、遣わされるために、救われたのです。

一人一人の人生には、オリジナルの使命、役割があります。

イエスさまが救わなければならないその愛によって救われた私たちは、

イエスさまに従って行くことによって、最高の最善の幸せな人生に変えられていくのです。

無条件の愛によって、心が大きく変えられ、自分に与えられた使命に生きるよう、本当の生きた人生、生きがいのある人生へと歩み出すことができるのです。

 

愛されているということは、選ばれ、覚えられていること 祝福を受けていること 傷を受け、裂かれること 与え、献げられていくことです。

皆さんは、神さまに深く愛されておられますか?

最後に、神さまご自身が、私たちの愛を求めていることを確認して終わりたいと思います。

「あなたはわたしを愛しますか」と神さまは、私たち一人一人の愛を切望しておられるのです。

ゼパニヤ書3章17節

「あなたの神、【主】は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主はあなたにことを大いに喜び、その愛によって安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」

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