恵みの日々

365 Days of Blessing

「神の等しい恵み」マタイ20章1~16節

神の等しい恵み―気前のよい主人―

マタイ20章1~16節

1.序

   さて、あとの者が先になる経験、たくさんあるのではないでしょうか?

後回しにされて、嫌―な思いをしたことが何度もあろうかと思います。


※ラーメン屋にいって先に注文したのに、後からきた人の注文が先にでたらどうしますか。

よく観察します。もう一人抜かれたら、注文取り消して出ようと思う。 

とにかく、先を越されるというのはいやなものです。行列に並ぶのは日本人特有なのでしょうか。いいものに何時間も行列で並ぶのはなんともなくても、1つ2つの順番には結構うるさいのではないでしょうか?

    

   さて、マタイ20章1~16節は「ぶどう園の労務者」のたとえです。

   皆さんはこの箇所読まれて、どのように感じ、考えられたでしょうか?

聖書は文脈で読むと正しい解釈ができます。いや文脈で読まないと誤った解釈をすることが

あります。

この箇所もやはり前後の文章と深い関係があります。

この箇所は、3点1セットの話です。

1節は、原文のギリシャ語では「なぜなら」という言葉で始まります。

「なぜなら天の御国は~」

それは19章23節から30節の話の結果が、「なぜなら」です。どんな話かというと、 

多くの財産を持つ富める青年が悲しみながら立ち去っていったという話です。

すると23節でイエスさまが、

「金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」と言われました。

すると27節、ペテロが、

「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか」と突っ込んできました。

すると28節イエス様は、ご自身の再臨後の新天新地において、治める、支配する者となるだけでなく、

29節

「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」と、

大きな犠牲の後に受ける祝福は100倍であり、永遠のいのちを受け継ぐと言われました。

    そして30節

「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」と不思議なことをおっしゃられました。

   

さてもう一つの話は、20章20節から28節です。

     ゼベタイの息子たち(ヤコブとヨハネ)の母(サロメらしい)が来てひれ伏し、

21節 

「私のこの二人の息子が、あなたの御国で、一人はあなたの右、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」と、ヤコブとヨハネが側近の右大臣・左大臣の地位を願いました。

どうやらイエスさまの母、マリアと姉妹関係にあったようなので、叶えてもらえると思ったのでしょう。

この時、他の弟子たちもこの地上に、イエスさまの王国が実現すると考えていました。

イエスさまがローマ帝国の圧政から、イスラエルを再興してくださると期待していました。

ライバル意識があり、特に目立つペテロより上に行きたいと抜け駆けをしたのでしょう。

18.19節で、イエスさまの死の宣告、十字架にかかり三日目によみがえるという宣告を聞いてすぐのことでした。

24節 他の10人の弟子たちも当然のように腹を立てました。


イエスさまは「あなたがたは、自分が何を求めているか分かっていません。」

そして

26節「偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。」

27節「人の先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。」と言われました。

  

  どうでしょうか?この3つの話、どこでどのように繋がっているでしょうか?

きょうのテキストは、前後2つの話に挟まれた例話です。

 ではそのような文脈をしっかり踏まえながら、本文を見ていきたいと思います。


1.まずこの話の背景を見てみます。

イスラエルでぶどうは非常に重要なものでした。

ぶどうの収穫は神の祝福であり、喜びでした。ぶどうは生活に不可欠のものでした。

時はぶどうの収穫期9月です。ユダヤの気候は10月~3月までの雨期と4月~9月まで

の乾期があり、9月は乾期の最後です。ユダヤの暦は9月から始まります。

いかに重要な時期であるかあらわしています。 

    10月から雨期になり、豪雨があります。

ユダヤのぶどうは棚ではなくて畑の地面を這うものだったようです。

ですから、一刻も早く収穫しないと、ぶどうが雨で腐ってしまいます。

    ねこの手も借りたいほど多くの人手が必要でした。

労働時間も早朝6時から夕方6時、日没まででした。

1時間バイトでも大歓迎であったようです。 

    ただ、じりじりと焼き付ける炎天下で、日陰もなく、果てしなく広がっている畑の地面に這いつくばって収穫するというのは、まさに重労働そのものでした。


2.内容の概略

さて、1節から16節は、大きく3つの場面に分かれます。

1~7節、8~10節、11~16節です。3つの区分に分けて見ていきましょう。

 

1. 雇用契約(1-7)

1~7節はいわゆる雇用に関することです。

  主人は5回に分けて雇用しました。5つのグループに分けたようです。

しかし、ビジネス感覚からすると、最初から必要な人員を雇えば効率的だと思うのですが。

この主人は雇用について、全然計画性がないように見えます。

①2節 朝早く、夜明けと同時でしょう。1日1デナリの約束をしました。

    ②3節 9時ごろ市場で立って、何もしないで立っていた人達を見て、

「相当の賃金を払うから」と言って雇いました。

     ③5節 12時

④    3時 9時の時と同じようにした→ 相当の賃金を払う

     ⑤6、7節 5時 「なぜ一日中仕事もしないで・・・」「誰も雇ってくれない」

「行きなさい」ただこの時、報酬について何も言っていません。 

       注目したいことは、契約、約束を交わしたのは、最初の者たちだけでだったのです。

  

2.報酬の支払い(8~10)

   8節 1日の労働が終わりました。賃金の支払いです。

     イスラエルでは、その日のうちに賃金を支払うことが義務付けられていたようです。

     その日の食事に事欠く人たちが多くいたからです。

     しかしこの支払いは常識的にありえない、誰の目にもおかしいことが2点ありますね。    

  ①順番 最後の者たち(5時に雇われた者)から順に支払う。

 疲れて早く帰りたいはず 良く働いた者が1番ではないかと当然に思います。

待たせ、焦らせ、期待させて最後なのか。

朝から働いた労務者たちから支払いすれば、問題も起こらなかったかもしれ

ません。

②1デナリずつの同一賃金、労働者の平均賃金でした。

1デナリは通常の報酬であり、契約は正当でした。しかし

          時間給 1000円と仮定したら

          朝早く6時12時間12000円 9時頃9000円 

          12時頃6000円 3時頃3000円 5時頃1時間1000円

          賃金格差が12倍です。体力差考えれば実質上もっと大きい差があります。

          どこから見ても不公平でした。不当賃金として訴えられます。

          おそらく最後の労務者たちは、1日分の報酬をいただいて、飛び上がるほど

喜んだことでしょう。

  

3. 労使の話し合い(11~16) いわゆる労使交渉です。

11節 約束賃金受け取った後、最初の者たちが当然のように不平不満をもらします。

      12節 1時間しか働かない者と同じ扱いは不平等だ。

           「私たちは一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した。」 

      13節 しかし主人は「不当なことはしていません」 原語は「悪をしていない」

1デナリの約束どおりだと言い切ります。

      14節 「あなたの分を取って帰りなさい」

「最後の人にも、あなたと同じだけ与えたい」

      15節 「私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか」  

       主人は、毅然と、自分の筋を通した説明をしています。


   そして16節「このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」と言われました。

3.3つのポイントを学びたい

  1.先の者の課題 2.後の者の祝福 3.救いの絶対性 

 (1)最初の者の課題 

   ①軽蔑する、見下げる 12節

「最後に来たこの者たち」なんだこいつらは、一緒にするなという言い方です。

「この者たち」といっているので、最後に来た者たちがまだそばでいることがわかります。

「労苦と焼けるような暑さを辛抱した」「労苦」は過酷な労働を表します。

※ユダヤの9月の1日の朝晩の温度差40度以上あると言われます。尋常の暑さではありま

せん。

「同じように扱いました」 

自分たちの労苦が全然評価されていないという不満のことばです。

納得がいかない。大阪弁だと「あんまりやないか」「あまりにひどいやおまへんか」

12時間働いた自分たちと涼しくなった夕方の1時間しか働かなかった者と同じように 扱われるのは、屈辱以外なにものでもなかったのです。

   先の者であるという自尊心、プライド、自分たちは特別だという意識があります。 

    前後の文脈関連で見ると

19章27~29節で、ペテロは

     「すべてを捨てて、あなたに従って来ました」何もかも捨てて従ってきたのです。

当然受けるべき報酬は何ですか?という思いと同じです。 

20章20~21節で、ヤコブとヨハネも

       御国でイエス様の右と左という高い地位、側近の地位を得たい。と要求したのです。

        

そういう彼らの考えは天の御国とは全く相容れないものでした。


ピリピ 2章3節

「 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりす

ぐれた者と思いなさい。自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。」

     果たして最後に来た者たちは、最初の者たちよりすぐれたところが全くなかったのでしょう

か?

彼らより自分がすぐれているという根拠は、体力、成果、労働量なのでしょうか?

私もよく、実績にこだわります。かつての仕事イメージから、貢献度の指標から抜けきれ

ません。最初の労働者の気持ちについ共感してしまいます。


ペテロやヤコブ、ヨハネもイエス様のみこころから遠かったのですが、同様に、

最初の者たち、即ち先の者たちは、主人の心から大きく離れていたのです。


   ②ねたむ心 15節 

主人の取った行動は、一日中働いた者たちのねたみを引き出す、まるで試すかのようです。くたくた、バテバテなので、早く帰って休みたい。熱い風呂に入って寝たい。

それなのに目の前で、最後の者たちから順に賃金が払われます。それも1デナリずつ。

それを見て、次第に期待感は高まっていったことでしょう。あるいは10デナリほどもら

えると期待し始めたかもしれません。

しかし、そのふくらんだ期待は完璧に裏切られ、無残にも粉々にされました。

そして同時に激しいねたみの感情が爆発しました。

11節「不満をもらす」は、不快感、不満を継続的に表しつづける状態を意味します。

えこひいき、不公平に対する怒り、ねたみという感情は私たちの生活にも日常的に起こる

やっかいな感情です。

15節の「ねたんでいる」というこのことばは、もともと「目が悪い」ということばです。

人を見る目が曲がってしまう。目つきも視力も悪くなってしまう。

「私が気前がよいので、あなたの目が悪いのか」ということです。目つきが険しかったこ

とでしょう。

      それは自分に与えられたもので満足しない心からくるものです。

なぜ、約束の報酬、1デナリで満ち足りないでしょうか?

      主人から恩恵として雇っていただいた、恵みとして自分に与えられた仕事への感謝があ

りません。

雇われた時の喜び、恩恵、感謝はどこに行ってしまったのでしょうか?


「相当の賃金」とは「正しいもの」「働きに応じた賃金」です。

ねたみのあまり、主人が最後の者たちに相当な賃金である正しいものを与えることを

不当なことをした(間違っている)と抗議したのです。 

  雇い主である主人が、不公平な人物である感じたことが恐るべき大きな問題です。

  主人は彼らだけに雇用契約を交わしました。それは

 裏をかえせば、雇用契約が必要だったほど、最初から彼ら自身に問題があったということ

かもしれません。

 彼らに「相当の賃金を払う」と言えば、どうなっていたでしょうか?


③13節 主人の「友よ」という語りかけです。彼らの見下げた考え、ねたみにも関わら    

  ず、「友よ」と呼ばれます。

このことばは、上下関係とか雇用関係を超えた語りかけです。

「あなた」というのも固有名詞です。主人の親しみと慈しみのことばです。

彼らはまじめで、よく働く、リーダー的存在だったのでしょう。主人の期待があり、  期待通り仕事をしたのでしょう。「よくやってくれた」という思いが汲み取れます。

この「友よ」ということばですが、イエスさまを裏切るユダが口づけしてきた時に、

イエスさまがユダに「友よ」と呼んでいますが、その同じことばです。

それは、主人の期待を裏切ってしまう者に対してへの、愛と同時に深い悲しみと憂い

が込められていることばなのです。

彼らは、自分の仕事、働きに対する報酬、報いを求めるあまりに、

主人の恩恵を忘れてしまうのですが、主人は変わらず「友よ」と呼びました。

イエスさまは、期待を裏切る者に対しても、慈しみ深く「友よ」と呼ばれる方なのです。


(2)最後の者への祝福 

最後の労働者はどんな人たちだったのでしょうか?

取り残された 落ちこぼれた人たちでしょうか。軽蔑され、能力がない、賜物がない人

あるいはまた5時ごろから 人生の晩年を迎えた人たち 残りの人生の希望がない人達 

7節の「だれも雇ってくれないからです」どこかで聞いたことようなことばです。

見捨てられていた。今のこの不幸は、他人のせいだという。

ヨハネの福音書5章 ベテスタの池の病人 38年病気のまま 悲観 絶望 

      努力尽くしても無駄、あきらめ、絶望感 今の私になったのは他人のせい

しかし朝早く(6時ごろ)から働いた労働者には、理解できない最後の労務者の忍耐、

辛抱というものがありました。

ほぼ一日中、炎天下立ち続けて、ただいつともわからず、雇ってくれるのを待ち続けた。

日が落ちかけてくると、失望感がふくれあがってくる。今日もだめだったか。 

      炎天下で働きつづける忍耐と立って待ち続ける忍耐、どちらが大変なのでしょうか?

6節の「立っていた」(口語訳)では「まだ立っている人々」立ち続けていたという

意味です。そこから離れないで、ずっと立ち続けていたのです。

決してあきらめることなく、一日中、希望捨てず、ただ雇われるのを待ち続けていた。

主人は恐らく、彼らが朝早くからずっと立っていたのを見て、知っていたのではないでしょうか?だから何度も来て仕事を与えようとしたのではないでしょうか?

彼らは、一時間のわずかの賃金でも持ち帰らなければ、生きていけないほどの生活状態だったのでしょう。だから最後の最後まであきらめなかった。

6節の「なぜ、一日中仕事もしないでここに立っているのですか」は、主人のあわれみの声かけです。

自分たちの姿を改めて確認し、雇われる恩恵と感謝を起こさせる声かけです。

責めていることばでなく、そうなのかという共感、かわいそうにというあわれみ、慈しみに満ちたことばでした。

14節「同じだけ与えたい」最初から主人は与えるつもりであった。

限りない恵みの前には、働き、功績というものは影を潜めてしまいます。

16節「後の者が先になる」=最も忍耐した者が先に報酬に与るということです。

この世の労苦は決して無駄にならない。必ず正しい報い、報酬があるという天の御国の

法則なのです。

  

(3)救いの絶対性

このたとえ話は1節 天の国の譬えです。  

※古代キリスト教最大の神学者 オリゲネスは比喩的に次のように譬えています。

主人=神様 監督=イエス・キリスト 労務者=神の国の働き人、クリスチャン

ぶどう園=教会  雇われる=救われる 

1デナリ=義 罪の赦しと永遠のいのちです。 

      「ぶどう園に送った」は教会に派遣したという意味になります。

そのように見ると

救いはすべての人に朝早くから夕方まであらゆる時に提供されていることになります。 

朝早く(6時)から 幼い時から、救われクリスチャン人生を全うする人

夕方5時から 晩年になって、臨終の床で救われる人

     ではどうして、救われる時に、そんなに大きな違い、不公平があるのでしょうか?

 不平等だ、もっと若いうちに救われたかった。

      そうすればきっともっと良い人生をおくれたかもしれない。


しかし、「救い」というものは、神からの恵みなので、神の基準、視点で見なければなりません。

救われることに価値がある 救われることは最も大切な、何にも代え難いことなのです。 

たとえ生涯が苦労や悲しみ、嘆きの連続の人生であったとしてもまたいのちが長かろう

が短かろうが 救いにまさるものはありません。

もし救いの価値を薄めたり、軽くしたりするものがあれば、それはサタンの働きです。

救いは、神の絶対的主権で決定する 

      15節「自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか」

       「自分のもの」は複数形です。主人が自己決定できるすべてのものです。

       「してはいけませんか」はふさわしくないのかという意味です。

       自分のすべてのものを、自分で思うようにするのが良くないことなのか?

       一見 ワンマン、専制君主のようです。

       「気前がいい」の元々の意味は、善である。良いという意味です。

       当時、雇ってもらえるのは雇用主の恵みであったようです。雇っていただけなければ

家族は食べていけないほどでした。

だから、神の慈しみ、憐れみに対して、誰もとやか言う筋合いでない。言う資格も権

利もない。

 14節「最後の人にも、あなたと同じだけ与えたい」

 相当な賃金という救いを、与えることです。

 すべての人を救いたいという思いからでしょう。


イエスさまは、一人一人に救いの恵みを与えられる主権を持っておられるのです。

※介護施設に入ってから救われる方が少なくありません。

 人生の最後に救いを求める人たちをねたむべきでない。永遠のいのちを得る価値のある

人などいないからです。

  救いによって与えられる永遠のいのちは、それぞれの働き、功績に全く依存していな

いのです。ただただ恵みによって与えられるものです。


「あなたの神は小さすぎる」天地万物の創造者、歴史を支配しておられる、全能者

     三位一体の神の愛により、最高最良のものを与えられるという絶対者である主です。 


私たちの主である神は、完全な愛と義ですべてを満たすことのできる方です。 

     ひとり子イエス・キリストを十字架をつけて、私たちの罪から救ってくださいました。

私たちを愛する子、愛してやまない子として見てくださるのです。

絶対的主権で、私たちを救いに導かれる主を崇めましょう。


 最後に 私たちのなすべきことは何かを考えてみましょう。 

①恵みに生かされる 

   先の者と過信している。ペテロ、ゼベタイの子たちヤコブとヨハネたち、すべて捨ててイエスさまについてきた者に対しての警告でした。 

最初に救いに導かれながら、主のみこころから遠くなっていました。

救われる資格がないのに救いをいただいた。その恵みを忘れてしまっている。

   ありあまる恵みを十分すぎるほど受けている。なのに満足していない。

絶対的救いに与えられていながら いつまでこの世の価値基準に縛られるのか

相対的生き方を捨て、絶対的神の召し、使命に生きるよう戒められているのです。

すべての労務者に与えられた「1デナリ」は救いです。 

天の御国は取引や権利で考えるものでない、捉えてはならないのです。

ただ恵みによって罪から贖いだされ、救われたという事実に立つ。ただ恩寵のみ、ただ恵みのみです。ひたすら恵みによって生かされることが求められているのです。

  ②待ち望むこと この世の理不尽なこと、不条理に嘆くことがあっても希望があります。

決してあきらめない。

    この世の不条理を想像を絶するほど味わったのではないでしょうか。

この世では採算がとれない、理解できない、報われないことがあまりに多い

    しかし、主に信頼する者は、決して失望させられることはありません。

    希望がある、あきらめない。忍耐の先に必ず大きな祝福があるのです。

    天国では、大どんでんがえしがありますが、ご存じでしょうか?

     後の者が先になるのです。

      後の者がまず先に天国に入るのです。まず先に報いを受けるのです。

「後の者」が先なのです。

この世の価値観、枠組みは完全に覆されます。世界のすべてが恵みによって全く逆転されます。

これが天の御国の秩序、法則なのです。

 コロナウィルスや

   待ち望むことは力が与えられることです。