恵みの日々

365 Days of Blessing

2022.1.2 歴史講演会Ⅱ「プロテスタントによる日本宣教」幕末開国~現代

第二章 プロテスタント教会による日本宣教 


モリソン号事件

日本が開国するきっかけの一つとなったのは、1837年のモリソン号事件です。モリソン号事件のあらましはこのようなものです。1832年に、伊勢鳥羽の港を出発した出帆した船が、遠州灘で難破し、14ヶ月もの間太平洋を漂い、生き残った3人が、波乱の末、マカオにいた宣教師ギュツラフの元に預けられるようになりました。ギュツラフはこの3人の漂流民を用いて、聖書の日本語訳を試み、1837年にヨハネによる福音書の翻訳ができました。


それを印刷して、漂流民と共に日本に送り届けようとしましたが、印刷の方が遅れて、結局ギュツラフら日本との交渉を願う欧米人と漂流民たちとだけで、モリソン号に乗って日本を目指しました。しかし「異国船打払令」の出ていた日本は、モリソン号を見るや砲撃し、陸に近づくことを許しませんでした。そこでやむなく船は引き返し、漂流民たちは日本の土を踏むことなく亡くなりました。これをモリソン号事件といいます。


モリソン号の江戸来航は失敗に終わりましたが、この事件は東洋伝道を志す宣教師たちに、日本への関心を呼び起こしました。モリソン号に同乗していたアメリカ人貿易商のキングは「モリソン号日本来航記」という本を著して世論を喚起し、これによってアメリカ政府はペリーを日本に派遣して、日本との国交を結ばせようと動き始めました。


沖縄での試み

その頃カトリックでも日本に再び福音を入れようという動きが始まっていました(カトリックの場合は、キリシタン時代に布教しているので、再布教といいます)。1844年にパリ外国宣教会のフォルカード神父が、琉球の那覇に寄港して、滞在するようになりました。琉球は1609年から日本の支配下にあったので、キリスト教禁令が及んでいたのですが、外国との交流はある程度行われていたので、滞在するだけならばと許されたのです。


しかし2年間、小さな寺から出歩くこともできぬまま、祈りと日本語の勉強に集中するしかありませんでした。2年経つとフォルカード神父は香港に行き、代わりに2人の神父が来ましたが、日本の状況は一向に変わりませんでした。


プロテスタントでも1846年に、イギリス海軍琉球宣教会の宣教師、ベッテルハイムが家族を伴って那覇に来て、護国寺と言う寺に住みました。そして周囲からの拒絶をものともせず、琉球語で書かれたトラクト(小冊子)を配って、伝道しました。それで8年間で3人伝道されましたが、結局本国に引き返してしまいました。


ペリー来航と開国

1853年7月8日、ペリー提督の率いるアメリカ艦船4隻が現れて、日本は正に鼎の沸くが如き様相を呈しました。「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)、たった四杯で夜も眠れず」(意味:緑茶の高級品「喜撰」を4杯飲んだだけで、夜眠れなくなったみたいに、異国からの蒸気船が4隻現れただけで、国内が騒乱し夜も眠れなくなった)という狂歌が巷では流行りました。


この時ペリー提督は、アメリカ大統領の国書を役人に渡し、来航の目的、すなわち平和と友好で箱館と下田にアメリカ船の入港を許し、水兵たちの上陸と一時的な滞在、生活必需品の供給を求める旨を伝え、翌年また来るので、その時に日米和親条約を結びたいと希望を述べて、浦賀を去りました。


そして翌1854年、宣言通りにやって来たペリー提督は、品川から川崎沖に、軍艦7隻と他に2隻の堂々たる艦隊を並べて停泊しました。おりしも初代大統領の誕生日だったということで、全艦が一斉に祝砲を打ち鳴らしたのですが、聞いた日本人の方は大変驚きました。幕府も周章狼狽、急きょ横浜村に臨時の応接所を設け、そこで和親条約を締結するための会議を開くこととなりました。


会議は約3週間かけて行なわれ、下田と箱館の開港を決め、12条に及ぶ条約を決定しました。そしてこの条約から18ヵ月後に下田にアメリカ総領事を派遣することが決まりました。これに基づいて、1856年8月、タウンゼント・ハリスがアメリカ大統領の親書を携えて来日したのです。


ハリス来日

ペリーとハリスは共に、アメリカ聖公会に属する、敬虔なクリスチャンでした。特にハリスは一生童貞の誓願を立て、神のために生涯結婚しないで働くことを決心していた人でした。そこでハリスはようやく開国の兆しの見えた日本が、キリスト教をいまだに邪教扱いして禁止していることを憂い、これを必ず撤廃しようと願って来日しました。


また当時はヨーロッパ人によって持ちこまれたアヘンが中国に蔓延し、国の危機を招くほどになっていたので、アヘン商人から日本を守ろうという考えも持っていました。つまり通商条約の締結と、信教の自由の承認が来日の目的でした。


そして2年間粘り強く交渉を続け、1858年、神奈川沖の停泊中の船の中で、ついに日米修好通商条約が結ばれました。この条約は14条から成るものなのですが、ハリスが特に神経を払ったのは、宗教の自由に関する第8条でした。ハリスが提案した規定はこのようなものでした。


「日本にあるアメリカ人自ら其の国の宗法を念じ、礼拝堂を居留地の内に置くも障りなく、並びにその建物を破壊し、アメリカ人宗法を妨ぐることなし。アメリカ人、日本人の堂営を毀傷することなく、また決して日本の神仏の礼拝を妨げ、神体仏像をこぼつる事あるべからず。双方の人民互いに宗旨についての宗論するべからず。日本長崎役所に於いて、踏み絵のしきたりは既に廃せり」


この規定に関してハリスが言葉を選び、慎重に事を運ぼうとしたことが窺われますが、意外にも幕府側は簡単に承認しました。それでハリスは喜んで本国にこのように書いて手紙を送っています。「学校を起し、英語を教え、貧しい人に施療することなどが、伝道のために最も有益な働きになるでしょう」と。ハリスがキリスト教禁止を撤廃させるだけでなく、新たに宣教することまで念頭に置いてい働いていたことが分かります。


アメリカ人のための信教の自由の承認と、踏み絵の廃止を要求が受け入れられたので、ようやく道ができて、翌1859年から日本に続々と宣教師が派遣されてくることとなりました。また居留地に、日本に居住する外国人のために教会堂を建てることができるようになったので、そこに日本人が来てキリスト教に触れるようになりました。

安政の5カ国条約

1853年にペリーが来て、翌年日米和親条約が結ばれるようになり、それに基づいて1856年にタウンゼント・ハリスがアメリカ総領事として来日し、通商条約の締結を通して、日本国内での「アメリカ人の」信教の自由を認めさせ、居留地内に「外国人のための」教会堂を建てる許可を得ました。1858年(安政5年)のことで、同じような内容の条約を他の4カ国(イギリス・フランス・ロシア・オランダ)とも結んだので、この条約のことを元号を取って、安政の5カ国条約といいます。


一般に日米修好通商条約など安政の5カ国条約は、列強の外交圧力によって締結させられた不平等条約だったと、歴史の教科書では習います。関税の自主権がなく、日本で罪を犯した外国人を日本人が日本の法律で裁くことができない、という問題がありました。その点は後に是正されるべき課題として残り、実際に解決されていくんですが、注目すべきは、日本国内でキリスト教を信じても良いとされたことです。


ハリスはこれが簡単に認められるはずはないと考え、慎重に言葉を選び事を運んだわけですが、日本側が何の文句もつけずにあっさり受け入れたので、驚いて、こう書いています。 「それが承認されたことは、私には大きな驚きであり、喜びでもあった」と。


居留地の教会

このような安政の5カ国条約のおかげで、日本国内に設けられた外国人居留地には教会堂が建設されるようになり、宣教師も送られるようになりました。名目は、居留する「外国人のために」建てた教会で、それを牧会するために来る宣教師ですが、皆心では日本での布教、カトリックでは再布教を願っていたことは言うまでもありません。


最初に港が開かれたのは、箱館、横浜、長崎、神戸、新潟の5港で、港の周囲に居留地が定められました。外国人はここにしか住めず、当初は居留地から10里(40キロ)以上出歩くことも禁止されていました。日本ではまだ尊王攘夷の嵐が吹き荒れていて、外国人は敵だと考える人も多かったので、居留地には、外国人を一ヶ所に集め保護し、日本人との紛争を防止するという役割もありました。


1858年に横浜が開港されると、1859年沖縄に待機していたパリ外国宣教会のジラール神父が、フランス総領事の通訳兼司祭という身分で、日本の本土を初めて踏みました。そして1862年、横浜に「聖心教会」と名付けられた教会堂を建てました。


長崎の「天主堂」

「聖心教会」の建設後、ジラール神父は、長崎に教会堂を建てるよう人を送りました。1864年に、まず沖縄に待機していたフューレ神父をまず最初に送ったのですが、フューレ神父が病気になったため、代わりになる若い神父を派遣したのですが、それがプチジャン神父でした。そしてその年の暮れ、「居留する外国人のための」、美しい教会堂が長崎に建てられました。「居留する外国人のための」はずでしたが、教会堂の一番目立つ場所には「天主堂」と日本語で書かれていました。これはキリシタン時代に信徒が教会を呼んでいたときの呼び名です。


キリシタン時代、あの過酷な迫害を耐え忍んだ日本に、信徒の子孫が潜んでいないか、いるとしたら九州であろう、長崎ならばその可能性があると、神父たちは見込んで、ちょうど折りよく開港されることとなった長崎に、「天主堂」を設けたわけです。それは、隠れ信徒がいたら、この「天主堂」という文字を見て、反応して、やって来るのではないかと考えてのことです。


その「天主堂」の文字を熱い瞳で仰いでいる人たちがいました。長崎の浦上村にいた隠れキリシタンの人々です。彼らは迫害期に殉教したバスチャンといわれる人の預言を心の拠り所にしてきたのですが、その預言では「七代忍べばパードレ様(神父様)が船でやってくる。サンタ・マリアの御像を持ってやってくる。そうしたら大きな声でキリシタンの歌を歌って歩ける時代が来る」と言われていました。そして彼らはちょうど、隠れて信仰を守り抜いたキリシタン7代目の子孫たちだったのです。


しかし、キリシタンだとバレたら殺されるからと、村では長い間秘密に秘密にしてきたのに、ここで明らかにして本当に大丈夫なんだろうかと、キリシタンの末裔たちの間にはすごい葛藤がありました。一方、プチジャン神父の方は、諦めかけていました。誰も訪ねて来ることはなく、幕府の役人たちは「日本にキリシタンなんて、もう何百年も前から一人もいません」と、嘲るように言われていましたから。


ワレラノムネ、アナタトオナジ

両者の願いが叶うのは、1865年3月17日のことでした。実際にプチジャン神父がジラール神父に宛てて書いた手紙を以下に引用します。


「昨日の12時半頃、男女子供を合わせた12名ないし15名の一団が、単なる好奇心とも思われない様子で天主堂の門に立っていました。天主堂の門は閉まっていましたので、私はそれを急いで開けに行きましたが、私が聖所の方に進むにつれて、次第にこの参観者たちも私についてきました。(中略)私がほんの少し祈った後でしたが・・・40歳ないし50歳くらいの婦人が私のすぐそばに来て、胸に手を当てて申しました。『ワレラノムネ、アナタトオナジ』『ここにおります私共は、全部あなた様と同じ心でございます』と。


『本当ですか?しかしあなた方はどこからお出でになりましたか?』と私は尋ねました。『私たちは皆、浦上村の者でございます。浦上村ではほとんど全部の人が、私たちと同じ心を持っております』。それからこの人はすぐに私に聞きました。『サンタ・マリアの御像はどこ?』と。このサンタマリアによって祝された言葉を聞いて、私はもう少しも疑いませんでした。私は確かに、日本のキリシタンの子孫を目の前にしているのです。私はこの慰めを神に感謝いたしました。この愛する人たちに取り囲まれ、せき立てられて、私は、あなたがフランスから私たちのために持参して下さいました聖母の御像が安置してある祭壇に、彼らを案内しました」


これが、世界宗教史上の奇跡とも言われる、「信徒発見」の瞬間でした。長崎の郊外、浦上村のキリシタンが、一人の神父もいない中で、自発的に信徒の組織を作って村ぐるみで信仰を守り通して、禁教下の約250年を耐え忍び、開国後再び訪れるようになった外国人神父に、信仰を告白し、教会へと復帰したのです。


このような信仰の歴史を持つ国は、世界中どこを探してもありません。なのでこれを「東洋の奇跡」と呼ぶ人もいます。この歴史的出来事は、プチジャン神父が横浜のジラール神父に手紙を書き、ジラール神父からローマの教皇に報告されたのですが、これを聞いた教皇ピオ9世は、感動のあまり涙した、と伝えられています。


復活するキリシタンたち

「信徒発見」は信仰の勝利の瞬間でしたが、まだ始まりに過ぎませんでした。2百数十年もの間、自分たちで信仰を守って来たと言うけれど、その信じる所が徐々に変わっていってしまっていないかを、プチジャン神父は確かめる必要がありました。それで、同僚のロカイン神父らと夜陰に紛れて浦上村を訪れ、彼らのオラショ(お祈りの言葉)や信仰的に守って来たことなどを聞いて、信仰が変質していないことが確認されました。


驚くべきことに、隠れキリシタンの唱えるラテン語のオラショは、プチジャン神父が聞いて意味がわかるほど正確に伝えられていたということです。祈りの言葉の意味や教理を尋ねると、子供たちですらちゃんと答えられたそうです。隠れた組織であったにも関わらず、よくぞ立派に伝え、引き継いできたものだと、外国人神父たちは驚きを隠せませんでした。


ただし、曖昧になっている面もあり、最低限のことを確実に伝えようとしたため、教理がシンプルになり過ぎた面もあったので、信仰の再教育が行われるようになりました。隠れキリシタンたちは自分たちの家を改造して、人が集まれる秘密教会を作り、そこに神父に来てもらって夜な夜な教理を学び吸収していきました。


そうするうちに、この浦上村以外にも、五島や外海、平戸方面にも隠れキリシタンがいることを、プチジャン神父は知るようになりました。外国人はまだ居留地から出歩くことが許されていなかったので、長崎の天主堂の司祭館に、優秀で信仰のいいキリシタンの青年を匿って教育し、伝道師として育てて、彼らを外海や離島に送るようにしました。


すると、その若い伝道師たちの言葉を聞いて、五島の島々からも続々と隠れキリシタンが復活してきて、それらの島々からも若者たちが長崎に来て、学ぶようになりました。そして幕府の役人が「日本にキリシタンなんて、もう何百年も前から一人もいません」と言っていた、この日本で、まずは5千人のキリシタンが出てきて、島々を含めて7千人、他の地域を合わせて最終的には1万人以上の信徒が発見され、教会に復帰するようになりました。


これらの人々を、「復活キリシタン」と言います。ただし、禁教下であることは変わりがないので、キリシタンの発見も、復活も、教会への復帰も、全部、幕府にはバレないように隠密に行われました。そして信徒発見から2年も経たないうちに、最初の神学生が、長崎の天主堂のそばで、司祭になることを夢見て熱心に勉強するようになっていました。


明治政府と五榜の掲示

長崎に天主堂が建てられて信徒が発見されている頃、日本は大きな変革を迎えていました。江戸幕府から明治政府へと変わったのです。1867年11月江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上し、翌日天皇がこれを勅許したことを、大政奉還といいます。これに続き12月の王政復古の大号令において、幕府の廃止が公式に宣言されました。


大政奉還の翌年、1868年の途中で元号が慶応から明治になり、正に時代が江戸から明治へと移る節目の年となりました。1868年4月、明治天皇は公家や大名向けに「五箇条の御誓文」を示し、その翌日に太政官が五榜の掲示を民衆に出して、明治政府の基本方針を示しました。


五榜の掲示は五枚の高札に書かれて、高札場に掲げられた訳ですが、この三枚目、第三札に書かれていたのが切支丹・邪宗門厳禁、でした。また高札には、キリシタンの疑いのある者を密告すれば褒美を取らせるという一文もやはり書かれていました。時代は明治になっても、キリシタン禁制はそのまま引き継がれたということです。


浦上四番崩れ

教会への復帰を遂げた浦上キリシタンたちは、神父と交流するうちに徐々に信仰を表明する方向へと傾いていきました。1867年春、浦上村の者が死んだとき、檀那寺の僧侶を呼ばずに自分たちで埋葬する事件が起りました。江戸時代に布かれた寺請制度では、絶対にしてはならないとされていたことです。寺が庄屋に訴えて問題になりましたが、その最中にも僧侶を断り肉親を自葬する者が現れました。


これは信仰の自由を認めて欲しいがためでしたが、政府の政策に逆らうものだったので、この自葬事件が「浦上四番崩れ」と呼ばれる弾圧のきっかけとなりました。


1867年7月、長崎奉行所の役人が、キリシタンの秘密礼拝堂を取り囲み、信徒68人が捕らえられました。牢内で厳しい拷問を受けて21人が棄教を申し出ました。これに対して諸外国の公使はひどい宗教弾圧であると非難。日本政府に抗議しました。


1868年4月、明治政府は神道を国教とする方針を示し、5月の御前会議で浦上キリシタンを各地に分散して流配することが決定されました。諸外国の公使は政府に流配中止を申し入れましたが受け入れられず、浦上村のキリシタンは総流罪となりました。まず1868年に114人が3藩に、1870年には3280人が20藩22ヶ所に分けて移送されました。


浦上キリシタンたちはこの流配のことを「旅」と呼んで忍びました。


流配先での苦難

長崎の港に集められ、キリシタンは人間ではないからと「1匹2匹」と数えて船に乗せられて、各地に流配されていった信徒たちを待ち受けていたのは、死と隣り合わせの生活でした。飢えに苦しめられ、餓死した者もあれば、劣悪な環境で疫痢が蔓延し病死した者もいます。島根の津和野、山口の萩では過酷な拷問で棄教させようとしたため、健康だった若者も牢死しました。


諸藩の中でも和歌山や高知では、信徒の死亡率が33%を超えました。飢渇で苦しめられたところに、熱病が流行ったからです。牢内の衛生状況も極度に悪く、多くの子供たちが死亡しました。


金沢では雪の中に裸で一晩中座らせるなど、北陸では寒さを使って信徒を責めました。また首に犬のように首輪を付けられ引っ張られていたのですが、そのような浦上キリシタンの姿を見た、政府のお抱え外国人がショックを受け、同じキリスト教徒に対するこのような取り扱いを黙って見ていることができず、横浜にあった英字新聞に投稿したのですが、それを読んだ在日外国人から激しい非難が巻き起こりました。


明治2年末から明治6年5月まで、およそ3年半続いた牢屋生活によって、流配された3394人のうち、613人が命を落としました。彼らのことをカトリック教会では、最後の殉教者と呼んでいます。


宣教医ヘボンの来日

1853年にペリーが来航し、開国した日本ですが、ハリスの奮闘で1858年に日米修好通商条約が結ばれ、港が開かれて、外国人は居留地で教会堂を建てることができるようになりました。それで1859年から続々と日本に宣教師が派遣されて来るようになったのです。中でも有名な人は宣教医ヘボンです。ヘボンは医師で、無料で医療奉仕をしながら宣教していったので、宣教医とよばれています。


ヘボンを始めとする宣教師たちは、名目上は、「外国人のための」教会のために来日したわけですが、皆、日本宣教を夢見て海を越えやって来ていました。しかし日本ではまだ「宣教」は許可されていなかったので、彼らは直接日本人にのべ伝えることはできませんでした。そこで、将来の伝道を展望しつつ、宣教師同士、教派を超えて協力し、現状でできることを模索していきました。


日本人教師を雇って日本語を習得し、また日本人には英語を教え、そのうちヘボンは仲間の宣教医と共に施療所を設けて日本人を診療するようになりました。また禁教令が解かれた暁には、日本人が聖書を読めるようにしようと、聖書和訳を考えたのですが、そのためにはまず和英辞書が必要であろうということで、その編纂を手がけました。


そして「和英語林集成」という、世界初の本格的な和英辞書を出版しました。その第三版から使われるようになったのが「ヘボン式ローマ字」です。この辞書と日本語をローマ字表記できるようになったことが、開国後の日本人が外国の知識を吸収したり、逆に外国人が日本人に教えたりするのに大変役に立ちました。


プロテスタント最初の受洗者と横浜海岸教会

日本で最初にプロテスタントの洗礼を受けた日本人は、矢野隆山という鍼灸師でした。漢文などを読みこなす教養のある人で、それを買われて宣教師バラの日本語教師になり、キリスト教を信じるようになりましたが、世は禁制の時代なので、洗礼を受けることをためらっていました。しかし結核にかかってしまい、診てもらったヘボンから余命いくばくもないことが告げられ、病床でバラから洗礼を受けたのです。


受洗したのは1865年のことで、高札が撤去されるのが1873年なので、まだ禁教下でした。バラは、高札をものともせず熱情的に伝道する人で、1863年に日本に滞在するアメリカ人を中心にヨコハマ・ユニオン・チャーチを組織して、日本のために熱心に祈り、それと並行して1866年には日本人のための礼拝を開始しました。そして1871年にはついに、プロテスタントで最初の教会を横浜に建てました。これが横浜海岸教会です。


しかしこの頃は、宣教師の方は名目があるので堂々としていられましたが、太政官の「キリスト教禁令」が教会のすぐそばの高札場にも掲げられていたので、日本人は秘密裏に受洗して、クリスチャンとして生きていました。


同様に、長崎でもウィリアムズやフルベッキといった宣教師が、プロテスタントの教会を建てて宣教したので、密かにクリスチャンになる者が出ました。こうして禁教令が解かれるまでに、日本ではプロテスタントの受洗者が約20人に上りました。


箱館のニコライ

北の方では、ハリストス正教会のニコライが、1861年に函館のロシア領事館付きの司祭として来日し、禁教下ですので日本語と文化を勉強しながら布教の時を待っていました。1868年2月に、日本ハリストス正教会の初穂(最初の信者)で後に初の日本人司祭となる沢辺琢磨ら3人に洗礼を施しています。これも禁教下で行われたことでした。


沢辺琢磨は坂本龍馬の従兄にあたる人物で、元の職業は神社の宮司でした。このような転換があり、キリスト教解禁後の1885年には、正教会では約1万2千人の信徒を獲得するまでになりました。


聖書和訳への取り組み

宣教師ヘボン、ブラウン、グリーンらは、開国し発展し始めた日本にとって、今こそ一番必要なものは聖書であると考えて、1874年に「聖書翻訳委員社中」を結成し、教派を超えて協力して和訳に取り組むこととしました。日本に来ていた14ものプロテスタント教派の者たちが集まって翻訳にあたるため、意見の一致が難しく、途中で抜けていった者もいました。


しかし様々な紆余曲折を経て1880年、翻訳委員会による新約聖書の和訳が完成しました。その後、健康を害していたヘボンは夫人と共にヨーロッパに療養に行きましたが、一年後に戻ってきて再び翻訳に取り組みます。まだ旧約聖書が訳されていなかったからです。


持病のリューマチと戦いながら、毎日朝9時から午後3時半まで翻訳に割き、1887年にようやく旧約新約聖書の和訳を完了させました。多くの者がこの取り組みに参加しましたが、最初から最後まで携わったのはヘボン1人でした。

キリスト教弾圧に対する諸外国からの抗議

イギリス公使パークスをはじめ諸外国の公使たちは、浦上キリシタンの強制流罪決定に対して明治政府に強く抗議しましたが、第一次流罪は実施され、その後も流罪の中止を求めましたが、第二次流罪も行われました。


流配先での信徒の様子を実際に見た外国人が、横浜の英字新聞にその様子を投稿したのですが、それが再び外国人たちの抗議活動に火をつけ、諸外国から明治政府に待遇改善の要請が訴えられました。これを受けて明治政府が人を送って諸藩の実態を調査させたところ、苛烈な虐待が露見して問題となり、政府も諸藩に待遇改善を指示するようになりました。


しかしその一方で、1871年、キリシタン67人が逮捕されるという伊万里事件が起こり、諸外国からの抗議は止むことがありませんでした。


岩倉使節団の欧米視察

この頃明治政府を代表して、岩倉具視使節団が欧米へと出発しました。優れた欧米の文化を吸収し、知見を広めるという名目の裏には、安政の五カ国条約の不平等条項を改正する足がかりを見つけたいという希望が込められていました。


しかし日本国内でのキリスト教弾圧の状況を新聞に取り上げられたため、岩倉使節団が行く先々で受けるのは激しい抗議活動で、一般民衆から政府関係者にまで強い非難を浴びせられることとなりました。予想した以上の抗議を受けた岩倉具視は、このままでは条約改正どころか、交渉のテーブルにもつけないことを実感しました。


そこで日本にいる伊藤博文に「浦上キリシタンをただちに釈放しなければ、対等の外交を行えない」と打電し、明治政府にその旨を伝えるよう要請しました。


高札撤去

これを受けて1873(明治6)年2月、明治政府はついに太政官布告でキリシタン禁令を含む高札を撤去するとし、キリスト教禁令が261年ぶりに解かれることとなりました。しかしこれで信仰の自由が完全に認められたわけではなく、キリスト教黙許の時代に入っただけでした。


信教の自由が認められるのは大日本帝国憲法、信教の自由が保障されるのは、終戦後日本国憲法の発布まで待たなければなりませんでした。


浦上キリシタンの帰郷

高札撤去の太政官令が出て、1873(明治6)年3月までに浦上キリシタンは釈放され、4月から6月にかけて長崎に帰郷して行くことができるようになりました。しかし「旅」(キリシタン弾圧による流配のこと)から戻った信徒たちには過酷な現実が待ち構えていました。


流配されて行く者たちは処刑されるものと考えられたため、信徒たちの家は略奪に遭い、家財道具は何も残っておらず、家も壊され、畑も荒れ果てていました。1873年に村へ戻った1930人のうち、家があったのは1164人、家のない者は766人で、改心(棄教)したため前年に帰村した者にも家のない者が589人いました。キリシタンたちは、戻ってからも苦しい生活を強いられることとなったのです。


しかし芋の根をかじって飢えをしのぎ、田畑を割れた陶器のかけらで耕して、元の生活を取り戻した浦上キリシタンたちは、自分たちの村に聖堂を建てることを夢見、働いて、禁教令時代に迫害した村の庄屋の家を買い取って、その敷地に聖堂を建てました。そして「旅」の生存者たちは、その前に「信仰の礎」と刻んだ石碑を建て、信仰の勝利を神に感謝しました。