top of page
工場の花輪3
今週のことば

毎週に一度、一日一章ずつ解説をお届けいたします。

2024年5月5-5月12日(民数記9-15章)

民数記 9章

「彼らは主の命により宿営し、主の命により旅立った。」

                      (民数記 9:23)

 イスラエルがエジプトを出て2年目の1月14日に、主は、イスラエルに、過ぎ越しのいけにえをささげるように命じられました。人口調査の半月前です(民1:1)。モーセはカナンの地に入ったらこの儀式を守るのだと思っていたようですが(出12:25)、主は、荒野でも守るように命じられました。救いの原点を見つめるのは何時のときにも必要なのだと示されます。私たちが定期的に聖餐式を守るのもそのためです。個人的にも自分が救われたときのことを思い返すのは大事なことです。その過ぎ越しのとき、おそらくは身内の人の死だったのでしょう、死体に触れて過ぎ越しを守れなかった人がいて、モーセにどうしたらよいか、と訴えました。モーセは、すぐには答えず、主に問いました。主は、第二の月の14日、ちょうど一ヵ月後に、そういう人々のために過ぎ越しを守るように命じられました。主の民は皆、過ぎ越しの儀式を守るようにさせられたのです。理由もなしに過ぎ越しを守らない者は民の間から断ち切られました。主の民は皆、過ぎ越しを守らなければならなかったのです。私たちも、主の民であるなら、イエスさまの十字架と復活にあづかる者でなければなりません。モーセはどうしてよいかわからないときは主に問い、主の命じられるとおりに行いました。その姿勢は民全体に及び、イスラエルは、主からの雲の導くままに行動しました。雲が上れば出立し、雲が止まればそこに何時までも止まりました。出るも止まるも主のお導きのままでした。私たちも、主のみことばに聴いて歩み、みことばに従って止まるのです。

 

民数記 10章

「主の契約の箱は、三日の道のりの間、彼らの先にたって進み、・・・。」

                     (民数記 10:33)

 イスラエルは、人口調査をし、幕屋を建ててそれを聖別し、各部族ごとにささげものをささげ、全員が過ぎ越しを祝って後、主は、モーセに命じて二本の銀のラッパを作らせられました。全集団が秩序ある行動をするためでした。ふたつのラッパが長く吹き鳴らされると全会集が集まり、一つが長く吹き鳴らされると族長たちが集まりました。短く吹き鳴らされると東側の宿営が出発し、二度目に短く吹き鳴らされると南側の宿営が出発しました。戦いの時も短く吹き鳴らされ、祭りの時は高らかに吹きならされました。イスラエルがエジプトを出て2年目の第2の月の20日に、雲があかしの幕屋の上から離れて上ったので、イスラエルはシナイの荒野を出発し、雲がパランの荒野に止まるまで三日の道のりを進みました。出立はラッパの合図で、東側のユダ部族から進み出し、ユダ、イッサカル、ゼブルンの軍団が進み終わると、ゲルション族、メラリ族が幕屋を取り外して運び出し、続いて南側のルベン族、シメオン族、ガド族が出発し、続いてケハテ族が幕屋の聖なるものを運び出し、その後にエフライム族、マナセ族、ベニヤミン族が続き、最後尾にダン、アシェル、ナフタリの各部族が続きました。各部族は軍団長の指揮下に秩序正しく進みました。その集団の先頭には、契約の箱が進みました。今日も、みことばに導かれ、牧師、役員に従い、秩序正しい教会形成が進められることが必要なのだ、と示されます。この集団には、モーセのしゅうとレウエルの子ホバブも加わっていました。主はこういう人をも用いられるのです。

民数記 11章

「主の民がみな、預言者となり、主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」

                     (民数記 11:29)

イスラエルはモーセに率いられ、奴隷の苦役に服していたエジプトから救い出されてシナイの荒野まで来たのですが、荒野での生活の厳しさに不満を持ち、主につぶやきました。主は怒り、火を下されましたが、モーセが祈ると、火は消えました。しかし、イスラエルはすぐまた、エジプトでは魚や野菜を食べていたのに、ここではマナだけだ、肉が食べたい、と泣きわめきました。モーセは、それを見て、なぜ私にこんな民を任されたのですか、私はこんな身勝手な民の面倒を見きれません、死んだほうがましです、と主に訴えました。このモーセの訴えは、私、私、・・・を繰り返す自己中心的な訴えでした。民の強情を前にして、モーセも自己中心的になったのでしょうか。主は、モーセに、イスラエルの長老たち70人を集めさせ、彼らの面前で、モーセと語り、長老たちにもモーセの上にある霊を分け与えられました。主がモーセに共働者を与えられたのです。今日でも同じです。牧師、役員が一つとなって教会を養い育てるのです。このとき、モーセの召しに応じなかった長老二人も主の霊を受け、預言しました。モーセの従者ヨシュアが彼らの預言を止めさせようとしましたが、モーセは、主の民がみな、預言者となればよいのに、と言いました。私中心だったモーセが主の民の益を求める指導者に変えられていたのです。その後、神はうずらの大群を送ってイスラエルに肉を与えられましたが、欲望に駆られてうずらに飛びついた多くの者は疫病に打たれて死にました。

 

民数記 12章

「彼とは、わたしは口と口で語り、明らかに語って、謎では話さない。彼は主の姿を仰ぎ見ている。」

                      (民数記 12:8)

モーセの姉ミリアムは、アロンといっしょに、モーセが娶っていた異邦人であるクシュ人の女のことで、モーセを非難しました。彼らは、主はモーセだけに語られたのではない、私たちにも語られた、と言いました。彼女の心の底にあったのは競争心であり、ねたみでした。人の心には常にほかの人以上に自分を認めてもらいたいと思う競争心が働いており、自分以上に評価されていると感じる人に対してねたみを覚えるものです。それが嵩じると大きな罪を犯します。カインはねたみに駆られて弟アベルを殺し(創世記4章)、ソウルはダビデをねたんで最高の部下を失い(1サムエル18章以下)、イエスさまの弟子たちも、イエスさまの十字架を前にしてなお誰が一番えらいかを論じ合っていました(ルカ22:24)。競争心とねたみの恐ろしさを思います。主は、モーセとアロンとミリアムを呼び出し、アロンもミリアムも預言者として召したが、彼らとは夢や幻で語る、だがモーセとは直接、口と口とで語り合う、と語って、彼らの前を去られました。ミリアムはツアラトにかかり、全身、雪のように白くなりました。アロンは悔い改め彼女のために取り成しましたが、主が聞かれたのはモーセの執り成しでした。ミリアムは七日間、宿営の外に置かれた後、赦され、宿営に入りました。この事件を通して主の正しさと憐れみが現わされました。そしてモーセへの主の召しの独自性が確認されました。ねたみの恐ろしさと主の召しを重んじる姿勢の大切さをお受けしました。

民数記 13章

「モーセは、主の命により、パランの荒野から彼らを遣わした。彼らはみな、イスラエルの子らのかしらであった。」            

                      (民数記 13:3)

イスラエルがパランの荒野に入ったとき、モーセは、主の命により、カナンの地を探る偵察隊を派遣しました。イスラエル12部族の族長たちでした。モーセは、彼らに、その地の良し悪し、そこに住んでいる民の状況をよく調べてくるように命じました。彼らはヘブロンに行き、エシュコルの谷を探り、レボ・ハマテまで、40日にわたって、南から北までカナンの全地を調べ、その地の産物を、ちょうど葡萄のなる時期だったので、ぶどうの房のついた枝を切り取って肩に担いで帰ってきました。そして、パランの野にいたモーセとアロンそしてイスラエルの会衆に報告しました。彼らは、その地が乳と蜜の流れる良い地であること、その地の住民は強く、町々は城壁を持った大きな町々で、その住民の中にはアナク人という巨人もいたこと、を報告しました。良い地であることは朗報でしたが、住民が強力であることは問題でした。この報告を聞いて人々の心は動揺しました。そのときユダ族のかしらで偵察隊の一人であったカレブが立ち上がり、「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましよう。必ず打ち勝つことができます」と言いました。困難はあっても必ず占領できる、と主を信じる信仰から出たことばでした。それはヨシュアと結んだときさらに明確になりました。(14:4-9)。しかし、偵察隊の他の人々は、敵は強大でとてもかなわないと語り、民の気をくじきました。事に臨んで、信仰に立つか、不信仰に流されるか。お前はどうか、と問われます。

 

民数記 14章

「一つになってわたしに逆らったこの悪い会衆のすべてに対して、わたしは必ずこうする。この荒野で彼らは死に絶える。」  (民数記 14:35)                     

カナン偵察隊の人たちは、カナンの地は良い地だが、その地の住民は強大だ、と報告し、攻め上れば打ち破られ、妻子はさらわれてしまう、と言いふらしました。民は騒ぎたち、モーセとアロンに逆らい、モーセとアロンは彼らの前にひれ伏しましたが、ヨシュアとカレブは、主にそむいてはならない、恐れてはならない、彼らの守りは取り去られている、主が私たちとともにおられる、と言いました。しかし、イスラエルの全会衆は彼らを石で打ち殺そうとしました。そのとき、主の栄光が現われ、彼らを滅ぼし、モーセから彼らよりも強い国民を生み出そう、と言われました。モーセは、主がイスラエルを救い、彼らとともにおられることを、エジプトも他の異邦人も知っています、それなのに主がイスラエルをここで滅ぼせば、主はイスラエルを救えなかったと言い、主の御栄光がけがされます、と言って、イスラエルのために取り成しをしました。自分たちを殺そうとしたイスラエルのために取り成しをしたのです。主は彼のとりなしを聞き入れられましたが、主に逆らった人たちは皆、砂漠で死に絶え、彼らがさらわれると言った子孫たちがカナンに導きいれられる、命を賭けて主を信じるように訴えたヨシュアとカレブは生き残ってカナンの地に入る、と言われました。主のみことばを聞かずに攻め上った者たちは打ち破られ、カレブとヨシュア以外の者は皆、砂漠で死に絶えました。霊的には、私たちの内の古い人、肉が滅ぼされ、イエスさまにある新しいいのちが生かされることを示すしるしだ、と受け止めることができます。

民数記 15章

「わたしがあなたがたに与えて住まわせる地にあなたがたが入り、・・・主に芳ばしい香りを献げるとき、・・・。」

                    (民数記 15:2,3)

イスラエルの民は、カナン偵察から帰った族長たちの報告を聞いて、不信仰をあらわにし、モーセとアロン、カレブとヨシュアを石打にしようとして、主の怒りを買い、主から、その世代は約束の地に入れず荒野で死に絶え、次の世代の者たちを導きいれるという宣告を受けました。それなのに、勝手にアマレク人とカナン人の地に攻め上り散々に打ち破られて逃げ帰ってきました。そのイスラエルに、主は約束の地に入ったときのささげ物についての指示を与えられました。彼らの反逆にも関わらず、主は、イスラエルをきよめ新しくして約束の地に導きいれる、と決めておられたのです。主はこれら一連のご指示を、「わたしが、あなたがたの神、主であり、わたしがあなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出したのである。わたしはあなたがたの神、主である」というみことばで結ばれました。主のご真実さに変わりがないことに感動します。ささげものには羊や牛がささげられますが、それに穀物や油を加え、酒を添えるように命じられました。荒野でのささげものではなく、やがて導きいれられる農耕地でのささげものです。私たちも、罪のしがらみにまといつかれた今の世の歩みの中にあっても、やがて招き入れられる主の御国での生活を思い、それに備えて歩むのだ、と示されます。ささげ物のことでは罪はささげものによって赦されきよめられるというみことばを嬉しく聞きました。そして、衣の房のご指示から常に主を思い出すことの大切さを思いました。

民数記 1章

「イスラエル人の全会衆を、氏族ごとに父祖の家ごとに調べ、すべての男子の名をひとりひとり数えて人口調査をせよ。」

                       (民数記 1:2)

 民数記という書名はこの書に2度の人口調査の記録があることによりますが、ユダヤ人たちはこの書の書き出しのことばから「荒野にて」という題をつけています。第1回目の人口調査はカナンに向けて出発するときに行われましたが、その後、イスラエルは、罪を重ね、荒野で死に絶え、新しい世代の者たちが起こされ、約束の地に入る備えが整えられました。第2回目の人口調査は、古いイスラエルが死に絶え、新しいイスラエルとなっていることを確認するためのものでした。この荒野での出来事は、古い自分が十字架につけられ新しくされるクリスチャンのいのちを指し示しているようです。主は、イスラエルをエジプトから連れ出し、シナイの砂漠で、礼拝についての教えを与え、幕屋を建てさせ、主の民としての生活についての指示を与えられたのですが、いよいよ約束の地カナンンの地に向けて出立ということになったとき、人口調査を命じられました。軍務につくことの出来る者がどれだけ、どのような構成で与えられているのかを確認することが必要だったのです。事に当たるときは、相手を知るだけでなく、自分を知ることが必要なのです。この調査は、全体で何人いるかでなく、ひとりひとり、氏族ごとに確認されました。主は私たちを一人ひとり大事な者と見てくださっているのです。しかし彼はひとりで生きるのではありません。氏族ごとに数えられたことは、自分のルーツを知ることと交わりの中で一人ひとりが大事にされていることを示しています。

 

民数記 2章

「イスラエル人は、おのおのその旗のもと、その父祖の家の旗じるしのもとに宿営しなければならない。会見の天幕の回りに、距離をおいて宿営しなければならない。」

                       (民数記 2:2)

主はカナンの地に進むイスラエルに、まず人口調査を行って、自分自身を確認させられました。そのとき、一人ひとりを登録させられました。主は一人ひとりを大事にされたのです。しかし、ひとりで生きるのではなく、父祖の家の旗の下、群れとして生活し行動するように命じられました。それぞれは氏族ごとに登録され、軍団ごとに宿営し、進軍するように命じられました。第1の軍団は、レアの子たち、ユダ、イッサカル、ゼブルンの3部族、第2のルベンの軍団は、同じくレアの子であったルベンとシメオン、レアの女奴隷ジルパの子ガドの3部族、第3のエフライムの軍団はラケルの子ヨセフの二人の子エフライムとマナセ、そしてラケルのもう一人の子ベニヤミンの流れを引く3部族、最後の第4軍団は、ラケルの女奴隷ビルハの子ダン、ナフタリの部族と、レアの女奴隷ジルパの子アシェルの部族の3部族で構成されました。イスラエルが進むときは、この順序で行進し、第2軍団と第3軍団にはさまれ、レビ部族が幕屋を守って進みました。宿営するときは、幕屋の回りにレビ部族が宿営し、東に第1軍団、南に第2軍団、西に第3軍団、北に第4軍団が宿営しました。それぞれの宿営と会見の幕屋との間には少し距離が置かれました。私たちも、主をおそれ、なれなれしく主に近づかずしかし主を囲んで、秩序ある交わりを形成しつつ生活し行動する、それが教会の交わりだ、と示されます。

民数記 3章

「イスラエルの子らのうちのすべての長子の代わりとしてレビ人を・・・取り、わたしのものにしなさい。」                      (民数記 3:41)

 

ここでは、まず、アロンとモーセの系図が示されます。モーセは主のみことばを受ける者、アロンはイスラエルを代表して主の御前に立つ大祭司、ともに、主の民イスラエルにとって最も大切な人たちでした。アロンには4人の子がありましたが、ナダブとアビフは主の命じられたのとは異なる火をささげたかどで死んだので、エルアザルとイタマルがアロンについて祭司のつとめを果たしました。主はアロンとその子らを祭司として幕屋のつとめを果たすように命じ、彼らのつとめは聖なるもので、彼ら以外の者で彼らに代わろうとする者は殺される、と言われました。主を礼拝することがどんなに大事なことであったかがわかります。彼らはレビ族に属する者たちでしたが、主はそのレビ人をイスラエルの長子の代わりに選んで、アロンにあてがい、彼らのつとめを助けさせられました。レビは長男ではなく、レアの三番目の子でしたし、シェケムで虐殺を行うなど粗暴な人でした(創34章)。人間的に見て資格があったから選ばれたのではなく、主が選ばれたから祭司の氏族とされたのです。私たちも、罪人であったのに、贖われ、赦されて祭司の民とされたことを覚え(1ペテロ2:9)、感謝して主のために生きようと思いました。レビ族は1章の人口調査のときは登録されませんでしたが、ここで、独立に、ゲルション、ケハテ、メラリ、の氏族ごとに登録され、それぞれのつとめと宿営の場所も指定されました。彼らはそれぞれの職分を与えられ、秩序正しく主に仕えたのです。

 

民数記 4章

「それは会見の天幕で任務に当たり、仕事をすることのできる三十歳以上五十歳までのすべての者である。」                       (民数記 4:3)

 前の章のレビ人の人口調査は生後一ヶ月以上の男子がすべて登録されましたが、この章では、三十歳以上五十歳までの、会見の天幕での務めにつくことのできる男子だけの登録のことが記されています。調査目的の違いによるものだったからだと思われます。先の人口調査では、イスラエルの長子の代わりにレビ人を主のものとするという意味での調査、今日の箇所では幕屋での奉仕のための調査、またイスラエルの他の部族の人口調査には軍事目的があったので、二十歳以上の軍務につくことのできる者を全員を登録させ、今回の調査は会見の天幕の奉仕のためでした。軍務では体力、幕屋での奉仕は分別が必要だということだったのでしょう。今も、主のための奉仕には、主の聖を重んじ、主を畏れ、慎重に、思慮深く行動することが必要だ、と示されます。レビ人の登録は、幕屋に関する奉仕の種類別に、ケハテ、ゲルション、メラリの氏族ごとに行われました。まず、聖所の器物の取り外し、運搬、設置を担うケハテ族の人口調査、登録が行われ、ついで、幕屋の幕の管理、運搬の奉仕にあたるゲルション族の調査、そして、幕屋の木部の管理と運搬に当たるメラリ族の調査が命じられました。幕屋が移動するときは、まず祭司が幕屋に入って、聖所の器具を覆い、それから、幕をはずして運び、それから木部を運び出しました。それぞれの働きは、祭司の指導の下で行われました。主のための奉仕は特に大事にされているのがわかります。お前は主を恐れ、主のための時間や奉仕を聖なるものとしているか、と問われているのを覚えます。

民数記 5章

「ツアラアトに冒された者、漏出を病む者、死体にによって身を汚している者をすべて宿営の外に追い出せ。」                       (民数記 5:2)

 

 この章はイスラエルの出立への備えの続きです。これまでの主のご命令は、戦いに備えての人口調査や、会見の天幕の礼拝奉仕と移動のためのレビ人の整備など、いわば外的な備えでしたが、この章のご命令は主の民のきよい生活という内的な備えの指示だと言えるでしょう。まず、ツアラアトや、漏出、また死体によって身を汚したり、汚れを負っている者を追い出せ、というきよめの命令が与えられます。宿営の外に追い出せという厳しさはきよい民を求める主の御思いの強さの反映でしょう。しかし、汚れた人々を排除するためでなく、彼らがきよめられて回復される道が開かれていました。死体に触れた者の汚れは夕方まででしたし(レビ11:24)、漏出を病む者は癒されたとき八日目に贖いを受けてきよめられました(レビ15:13-15)。ツアラアトも癒しが確認されて八日目に贖いをしてきよめられました(レビ14:20)。主は汚れを除かれますが、汚れた者は贖いきよめて回復してくださるのです。内的備えの二番目は罪でした。罪は人を縛って前に進めなくします。ですから、罪を告白し、贖いをし、弁償し、罪を完全に処理して進むように命じられました。今も、罪を告白し赦しを確認した人はすっきりした信仰の歩みを見せてくれますが、罪の処理が不徹底な人の歩みは曖昧です。三番目は夫婦の間の不信感の解消です。夫婦の間の不信感は主の前ですっかり解消されなければ大きな妨げになります。主の御前で信頼しあえる夫婦関係の回復が大切です。

 

民数記 6章

「主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。」(民数記 6:25)                      

 主はイスラエルがきよく歩むように願われました。5章では、消極面から、汚れを除くこと、罪を告白し罪から離れること、そしてお互いの間の不信感の処理を命じられましたが、6章では積極的に、ナジル人として主に身を献げる生活について語られました。ナジル人とは、祭司やレビ人のような特別な立場を与えられた人ではなく、普通の民が普通の生活の中でその身を主に献げる誓願を立て、その誓願期間中、特別に主のための生活に励む人々でした。普通は誓願期間が明けると普通の生活に戻りましたが、特別に生涯ナジル人として生きるように召された人たちもありました(たとえばサムソン。士師13:5)。ナジル人は、ぶどう酒や強い酒を飲まず、ぶどうの実も、ぶどうの実から造ったものも食べないように命じられました。また髪の毛にかみそりを当てることも禁じられました。ナジル人とすぐわかるためだったと思われます。さらに死体に触れたりして汚れると、七日間のきよめの後、もう一度、ナジル人の誓願を立て、一からやり直しました。彼らは普通の人たちの中で普通に生活しながら、主第一に生き、主の聖を指し示す役割を果たしました。イエスさまは、弟子たちに、「あなたがたは、地の塩です。・・・世界の光です」と言われました(マタイ5:13,14)。私たちも、この世の普通の生活の場にあって、現代のナジル人として生きるように召されているのではないか、と思います。そのような者こそ、「主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように」との祝福のみことばを喜んで聞けるでしょう。

民数記 7章

「モーセは、主と語るために会見の天幕にはいると、あかしの箱の上にある『宥めの蓋』の上から、すなわち二つのケルビムの間から、彼に語られる主の御声を聞いた。主は彼に語られた。」

                      (民数記 7:89)

 イスラエルは、シナイ山のふもとで、会見の天幕を建て終わり、人口調査をし、行軍の体制を整え、きよい生活のための指示を受けました。約束の地カナンに入る備えでした。幕屋を設営し終えた日、モーセは、幕屋に油を注いで、幕屋とすべての用具を聖別しました。そのとき、イスラエル12部族の族長たちがささげものをしました。祭司やレビ人たちが幕屋の奉仕に用いるためのものでした。族長たちが部族をまとめる力は感謝から発し、レビ人の主への奉仕にあづかる姿勢によって育ったようです。族長のささげものは、族長二人に車一両、牛一頭。幕屋の移動のとき、レビ人たちが、運搬のために使うためで、ゲルション、メラリの2氏族に与えられました。ケハテ族が運ぶものは聖なるもので肩に担いで運びますので、車や牛の割り当てはありませんでした。族長たちは、さらに全焼のささげ物、罪のきよめのさげ物、そして交わりのいけにえをささげました。それは主にささげられ、祭司たちの奉仕を支え、イスラエルの人々の交わりを育てました。ささげ物は、毎日一人の部族長がささげましたが、主への献身と感謝は、繰り返されることによって確かなものとなります。私たちの週ごとの礼拝、毎日のデボーションもそうです。このように常に主に感謝の礼拝をささげるイスラエルに、主はモーセを通して語りかけられました。私たちもこのように主のみことばを聞く者でありたいものです。

 

民数記 8章

「レビ人をイスラエルの子らの中から取って、彼らをきよめよ。」

                       (民数記 8:6)

 この章にはレビ人をささげることが記されています。はじめの4節で、主が、アロンに、ともしび皿を燭台の前を照らすように取り付けさせられたことを記しています。「燭台の前に向けて」ともしび皿を取り付けるように命じられています。主への奉仕は、周りに目をそらすことなく、ひたすら主に向かってささげられるべきことを示しているのでしょうか。レビ人は、イスラエルの中からとりわけられ、罪のきよめの水のふりかけを受け、全身にかみそりを当て、衣服を洗いきよめて、主の御前に出ました。イスラエル人はレビ人の上に手をおき、レビ人は雄牛の上に手をおき、雄牛の一頭は罪のきよめのささげ物として、もう一頭は全焼のささげ物として献げました。それからレビ人は主の奉仕につきました。主のための奉仕には、人間的な準備を超えて、何よりも、罪の贖いと主への献身が必要であることを示しているようです。このことは今日でも同じです。イスラエルがエジプトを出るとき、エジプト中のすべての長子が打たれました。しかし、イスラエルの長子はすべて難を免れ、すべて主のものとされました。その長子に代わって、レビ人が主のものとされ、主への奉仕にあたったのです。私たちも、ほんらい滅ぼされるべき罪人でしたが、イエスさまの贖いによって赦され、きよめられて、主のために生きる者とされたのです。感謝して、主のために生きよう、と思いました。レビ人は25歳から50歳まで奉仕しました。主は最も高貴な御いのちを私たちのために与えてくださいました。私たちも人生最高の時を主にささげるのです。

​アーカイブ(先週分)

2024年 月 日

bottom of page