今週のことば
毎週に一度、一日一章ずつ解説をお届けいたします。
1サムエル記 16章
「サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油を注いだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。」 (サムエル記1 16:13)
イスラエル初代の王に選ばれたサウルは、有能ではありましたが、自分が人にどう見られるかを主よりも大事にしました。主は、彼を捨て、新しい王を立てようとされました。イスラエルをうわべだけでなく真実をもって主を信頼し心から主を愛する民にしたかったのです。それで、サムエルに、ベツレヘムへ行き、エッサイの子に油を注いで、王とせよ、と言われました。サムエルは、“そんなことがサウルに知れたら殺されてしまう”と訴えましたが、主は、“一頭の雌の子牛を引いて行って、「いけにえをささげるために行く。」と言えばよい”と答えられました。サムエルがそうして、エッサイを招き、子こどもたちを見て、外見からこの人か、と思ったとき、主は、“この人ではない、人は容貌や体格を見て判断するが、主はそうではない、心を見られる”と言われました。サムエルがその場に居合わせなかったダビデを呼び寄せ彼を見たとき、主はサムエルに「この人だ。彼に油を注げ。」と言われました。サムエルはそうしました。そのときからダビデに主の霊が激しく下りました。一方、主の霊はサウルから離れ、彼は悪い霊に悩まされるようになりました。イスラエルの王は、主からの霊によって立つ人なのです。こうして、イスラエルの新しい王が立てられたのですが、このときはまだこのことは明らかにされませんでした。今日のみことばを思いめぐらし、「人の外見でなく、主の霊の働きに目を留めることを教えてください。御霊さま。」と祈りました。
1サムエル記 17章
「私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、主の名によって、おまえに立ち向かうのだ。」
(サムエル記1 17:45)
サウルは一生の間、ペリシテ人と戦いつづけました。ペリシテ人は鉄の文化をもつ先進国で、その軍は強力でした。苦戦が続きました。それに今度の戦いではゴリアテという巨人が代表戦士として、イスラエルに挑んできました。イスラエル人は、彼を見るとだれもが身を引き、彼との一騎打ちに応じようと名乗り出る者はいませんでした。そこへダビデが、従軍していた兄の安否を問うためにやってきて、ゴリアテの挑戦のことばを聞きました。そのとき、彼は、「この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは。」と言いました。ダビデは主を恐れ主を愛していました。主を辱めるようなことばを聞くと怒りがこみ上げ、彼に立ち向かう力が湧きあがってきました。主を軽んじる者は打たれなければならない、と思いました。でも、羊飼いの少年が経験豊かな戦士と戦うなどということは常識的には考えられないことで、兄は怒り、サウルはなだめようとしました。しかし、ダビデの信仰を見たサウルは、主に委ねることにしました。ダビデは、「私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、主の名によって、おまえに立ち向かう。」と宣言し、刀や槍ではなく、滑らかな石一つで彼を打ち倒しました。主がダビデに勝利を得させてくださったのです。その勇気と力は主を愛し尊ぶ心から生まれ出たものでした。私には、これほどの主にたいする愛と信頼があるだろうか、と問われ、そのような信仰を与えてください、と祈り求めました。
1サムエル記 18章
「ダビデがソウルに語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。」
(サムエル記1 18:1)
ダビデがゴリアテを倒してサウル王に報告したとき、サウルの横でそれを聞いたヨナタンの心はダビデの心と結びつきました。主の御業が語られ、それを同じ信仰に立つ者が聞くとき、語る者と聞く者との間に深い交わりが生み出されます。そして、その交わりは彼らが苦難の道を通る時の支えとなります。このとき以来ダビデはサウルの下にとどめられ、彼の軍の大事な戦士として多くの戦いに出、どの戦いでも大きな勝利を得ました。しかし民が彼の戦果をほめたたえ、それがサウルにたいする評価を上回ったと知ったとき、サウルはダビデに妬みを覚え、彼を憎み、彼を殺そうとしました。サウルは主の民の幸いよりも自分にたいたいする評価を気にする人だったのです。サウルは、悪い霊につかれて錯乱状態になったとき、琴を弾いて彼を慰めようとしたダビデを殺そうとしましたが、ダビデはサウルの手を逃れました。彼は、「主はダビデとともにおられ、サウルのところから去られた」ことを知って、ダビデを恐れたのです。それで、自分の手によってではなく、ペリシテ人の手で彼を殺そうとし、娘のメラブを餌にし、また下の娘ミカルのダビデにたいする愛を利用して、ペリシテ人との戦いに送り出しましたが、ダビデはいつもペリシテ人に打ち勝ちました。サウルはますますダビデを恐れ、彼に対する敵意を燃えたたせました。主に従う歩みを始めると、自分第一の人の妬みを買って苦しめられることがあります。しかし、主を第一にして歩む友も与えられます。
1サムエル記 19章
「サウル・・・にも神の霊が臨み、彼は預言しながら歩いて、・・・着物を脱いで、・・・一昼夜の間、裸のまま倒れていた。」 (サムエル記1 19:23,24)
サウルのダビデにたいする敵意はますますひどくなって、ダビデを殺す、と周りの人々に言い出すようになりました。サウルはヨナタンにもその決意を話しました。ヨナタンはダビデを愛していました。ですから、ダビデはイスラエルのために良い働きをしているし、サウルにとっても益となる人だ、どうして彼を殺そうとするのか、とダビデを弁護し、サウルをいさめました。サウルは、このときはダビデを殺すことを思いとどまりました。ダビデは、ヨナタンのとりなしで、もう一度、サウルに仕えました。しかし、悪い霊がサウルに臨んだとき、サウルの殺意はふたたび燃え上がり、手にしていた槍をダビデに投げつけました。ダビデは身をかわし、その夜は難をのがれました。しかし、サウルは彼を殺そうとして、彼の家に使いを遣わしました。今度はサウルの娘でダビデの妻になっていたミカルがダビデを逃しました。ダビデは、ラマに居たサムエルのところに逃れましたが、サウルの殺意は固く、使いを遣わして、ダビデを捕えようとしました。しかし、使いたちは、霊につかれて恍惚状態になり、ダビデを捕えることができませんでした。こんなことが3度繰り返され、最後にサウル自身が出かけましたが、サウル自身に預言の霊が臨み、彼は恍惚状態のまま、裸で倒れてしまいました。主ご自身が預言者の霊を送って、ダビデを守られたのです。主はどんなことをしても、ご自身のしもべを守ってくださいます。主を信じ、主に身をお委ねしよう、と思います。
1サムエル記 20章
「ふたりは口づけして、抱き合って泣き、ダビデはいっそう激しく泣いた。」
(サムエル記1 20:41)
サウルのダビデにたいする敵意はますます高まり、そのことを察したダビデはヨナタンを訪ね、苦しい心のうちを吐露しました。ヨナタンは“サウルがダビデを殺すはずはない、自分にそのことを告げずにダビデを殺すことはない”と言いましたが、ダビデは“サウルはヨナタンがダビデに好意をもっているのを知っているから、ヨナタンには知らせないだろう”と言いました。ヨナタンは“サウルの真意を探って、彼のダビデにたいする殺意が本当ならそのことをダビデに知らせる、もしそういうことになっても、自分とダビデの友情は変わらない”と誓い、主によって契約を結びました。そして、サウルの殺意を知ると、そのことをダビデに伝え、ダビデを逃がしました。そのときの情景を聖書記者は、「ふたりは口づけして、抱き合って泣き、ダビデはいっそう激しく泣いた。」と記しました。そして、二人の間の契約を確認したことも記録しました。この時から後、ダビデはイスラエルの王となるための主の訓練の時をひとり歩むことになります。しかし、離れていても、自分のために祈り、陰ながら助けになってくれる信仰の友ヨナタンがいました。信仰生活では、私たちを指導してくれる指導者を求めることが多いようですが、リーダーとして育てられる人は、ひとり主に従い主とともに歩むよう、訓練されます。そのとき、引っ張ってくれる指導者よりも、自分の心の中の悩みを吐き出すことができ、一緒に祈ってくれる信仰の友、霊的同伴者が助けになるのです。
1サムエル記 21章
「あなたがエラの谷で打ち殺したペリシテ人ゴリアテの剣が、御覧なさい、エポデのうしろに布に包んであります。」 (サムエル記1 21:9)
サウルがダビデを殺そうとしていることを知ったダビデは、ノブの祭司アヒメレクのところへ行きました。しかしダビデが一人だったので、不思議に思ったアヒメレクは、どうしてかと聞きました。ダビデは“王の秘密の急用で来た、家来たちとは別のところで会う”とごまかし、空腹だったので、パンを求め、聖別されたパンをもらいました。また、“あまりにも急なことだったので武器も持ってくることができなかった”と嘘をついて、ゴリアテの剣をもらいました。追い詰められ、執拗に命を求めるサウルの手から逃れるためには、サウルの敵であるペリシテ人に身を任すしかないと思って、ダビデは、ペリシテ人の王のひとりアキシュを頼ることにし、彼のもとに行きました。しかし、ダビデを見たペリシテ人が、“これは「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と歌われたダビデではないか”と言い出したのを聞き、恐れ、気が狂ったふりをして、アキシュに“狂人は要らない”と言わせ、彼の前を去りました。この頃のダビデは人の顔を見ておじまどう日々を過ごしていました。主によってゴリアテに立ち向かった信仰の勇者の面影はみられません。しかし、主はこんな不真実で弱いダビデをも守り、イスラエルの王とするための備えをしてくださっていたのです。ゴリアテの剣を与え、主を信じることの大切さに目を向けさせようとされたのはその現われでした。行き詰まりの中にも主を信頼し、主の御手に気づく開かれた眼をもつことの大切さを示されます。
1サムエル記 22章
「しかし、私と一緒にいれば、あなたは安全だ。」
(サムエル記1 22:23)
ダビデは、ペリシテ人の王アキシュのもとを離れ、アドラムの洞穴に避難しました。その彼のもとへ、兄弟たちや親類の者たち、また社会のあぶれ者たちが集まってきて、400人ほどの軍団になりました。その中には預言者ガドもいました。また後に祭司エブヤタルも加わりました。ダビデは、ようやく人に頼らず、主にのみ頼る信仰が身についてきたのでしょうか。ダビデは、モアブの王に両親の保護を依頼し、預言者ガドの言葉に従って、要害を出て、ユダの地に戻りました。主を信じ、危険を恐れず、しっかりと自分の歩みを固めている様子がうかがえます。このころの、ただ主のみを見上げる歩みが、主を恐れ、イスラエルを治める王となる訓練となったのです。一方、サウルは、自分に人々の注目を集めようとし、家来たちまで不信の目をもって見、土地や地位を餌に人々を集めることに汲々としながら、かえって人々が離れていく道を歩んでいました。ひとの尊敬を求め、物質的利益に頼るいき方は不信と争いを生み、孤立に終わるものです。サウルは、ダビデのために主のみこころをうかがったということで祭司アヒメレクの一族を皆殺しにし、“サウルは主の民イスラエルの王にふさわしくな”ということを暴露してしまいました。アヒメレクの子エブヤタルはダビデの許に逃れましたが、そのとき、ダビデは、「私と一緒にいれば、あなたは安全だ。」といって彼を保護しました。誰と一緒にいるかが、不信と不安の中を歩むか、平安を得るかの決め手です。義と愛と力をまとわれた主とともに歩むことに勝る安全はありません。
1サムエル記 9章
「あすの今ごろ、わたしはひとりの人をベニヤミンの地からあなたのところに遣わす。あなたは、彼に油を注いで、私の民イスラエルの君主とせよ。」 (サムエル記1 9:16)
サウルがイスラエル初代の王とされたいきさつです。ベニヤミン族のキシュの家で雌ろばがいなくなり、父の願いに従って雌ろばを探しに出たサウルが、サムエルのもとに導かれました。サウルは、美しく立派な体格で、親の言うことにすなおに聞き従い、しもべのことばにも耳を傾ける良い性格の持ち主で、神の人に会うと聞くと、贈り物のことを考える礼儀正しい人でした。人間的にはよくできた人でした。しかし、神の人サムエルのことについては何も知らず、神の人に会うと聞いても恐れを覚えていません。神についての関心がなく、自分の罪深さの自覚もない、また主にたいする恐れもない人でした。主がそういう人をイスラエルの王とされたのは、イスラエルが、主を恐れ、主に聞き従う主の民となることよりも、自分たちが強くなり、自分たちの力をあらわし、自分たちの名を上げることを求めた(8:20)からではなかったでしょうか。主は、彼らの願いに合うサウルをイスラエルの王として与えられました。そのような王をいただいて歩むときどうなるかをイスラエルは実地に経験し、本当に主を恐れて歩むことを願うようになるのを主は待たれたのでしょうか。主はご自分の民が本当に主を恐れ、主を求めるようになることを願っておられるだと信じます。「まず主に聞き従う者としてください。間違ったときには、早く気づいてすぐ立ち返るように導いてください。」と祈ります。
1サムエル記 10章
「主が、ご自身のものである民の君主として、あなたに油をそそがれたではありませんか。」
(サムエル記1 10:1)
サムエルは、ソウルといっしょに来た若い者を先にやらせ、二人だけになったとき、サウルの頭に油を注いで、彼に、主がサウルをイスラエルの王とされたことを告げました。そして、サウルが、ラケルの墓のそばで二人の人に会ってロバが見つかったと聞くこと、ベテルで三人の人と会いパンを二つもらうこと、ギブアで預言者の一団と会ってサウル自身が預言すること、という三つしるしが起こることを告げました。そのしるしはすべてその日のうちに起こり、ギブアでソウルは神の霊を受け、預言しました。サウルが家に帰ると、おじが、どこへ行って何をしていたのかと聞きました。サウルは、ろばを探しに行ったこと、サムエルに会ったことを告げましたが、イスラエルの王としてサムエルに油を注がれたことは黙っていました。サムエルは、ミツパにイスラエルの民を集め、くじによって、サウルを選び出し、主がサウルをイスラエルの王とされた、と宣言しました。そのとき、サウルは荷物の間に身を隠していましたが、人々は彼を連れ出し、彼はイスラエルの誰よりも肩より上だけ高い雄姿をあらわしました。イスラエルは喚声をあげて彼を王としましたが、従おうとはしない人々もいました。しかしサウルは彼らを非難せず、黙っていました。このことはサウルの謙遜さを示すもののようですが、人の目にどう写るかを意識する自己中心性も見え隠れしているようです。人目を気にせず、ただ主だけを見上げる純真を与えていただきたい、と思いました。
1サムエル記 11章
「彼らはそこで主の前に和解のいけにえをささげ、サウルとイスラエルのすべての者が、そこで大いに喜んだ。」 (サムエル記1 11:15)
サムエルが、主はサウルを選んでイスラエルの王とされたと宣言してしばらく後、アモン人ナハシュが大軍を率いてヤベシュ・ギルアデに攻め上ってきました。ヤベシュの人々はサウルに助けを求めました。そのときサウルに神の霊が下り、彼は、一くびきの牛を切り裂き、それを全イスラエルに送って、「サムエルとサウルに従って出てこない者はこのようにされる。」と伝えました。全イスラエルから33万人が集まりました。主の民イスラエルの王と民の凛々しい姿です。サウルは彼らを率い、夜明けにアモン人の陣営に突入して、彼らをさんざんに打ち破りました。勝利の後、先にサウルが王とされたとき、彼を侮って贈り物をしなかった人々がいたことを問題にし、彼らを殺してしまおう、と言う人々が出てきました。しかしサウルは、「きょうは人を殺してはならない。きょう、主がイスラエルを救ってくださったのだから。」と言いました。ここでも彼は立派な王としての姿を見せています。それから人々はギルガルへ行ってサウルを王としました。「主の前に和解のいけにえをささげて、サウルとイスラエルのすべての者が、そこで大いに喜んだ。」と記されています。しかし、罪のいけにえと全焼のいけにえはささげられていません。自分の罪を悔い改め、主にすべてをささげて、それからお互いの関わりを喜ぶのが主の民の歩みです。罪の悔い改めが欠け、主への献身が不十分なサウルとイスラエルの歩みの先行きに不安を覚えるのは間違いでしょうか。
1サムエル記 12章
「あなたがたは、このすべての悪を行なった。しかし、主に従い、わきにそれず、心を尽くして主に仕えなさい。」 (サムエル記1 12:20)
サウルがアモン人を打ち破り、イスラエルがサウルを王としたとき、サムエルは、イスラエルの人々に、“今までは自分がイスラエルを指導してきたが、今、王が立った、これからは、イスラエルはサウルの言うことを聞くのだが、今までの自分の指導に間違いがあり誰かに害を与えたことがあったら、それをサウルの前で訴えよ、私は償いをする”と言いました。民は、“何もない、王がその証人だ”と言いました。その後、サムエルは、イスラエルに語りました。“イスラエルは代々、主に逆らい、他の神々を拝んで、大きな災いを身に受けたが、苦しみの中から主に叫ぶと、主がさばきつかさを起こして助けを与えてくださった、しかしアモン人の王ナハシュに攻められたとき、イスラエルは、主が主であるのに、王が私たちを治める、と言って、主に罪を犯した”と。そのとき、主は、雨の降らない時期なのに雷雨が来るという奇跡を見せて、主がサムエルとともにおられることを示されました。民は自分たちの罪を認め、サムエルにとりなしの祈りを求めました。 サムエルは、「あなたがたは、このすべての悪を行なった。しかし、主に従い、わきにそれず、心を尽くして主に仕えなさい。」と言いました。罪を犯したときは、ごまかさず、罪を取り返すために自分で何かをしようとするのでもなく、すなおに罪を認めて告白し、ただ、主を恐れ、心をつくし、誠意をもって主に仕え、主がしてくださることをしっかりと見分けることが大切なのだ、と示されたのです。
1サムエル記 13章
「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。」
(サムエル記1 13:13)
アモン人ナハシュを破ってイスラエルの王となったサウルは、そのとき集まった大勢のイスラエルを家に返し、3,000人の常備軍を残しました。王のつとめは、武力をもって国を統一し、敵から国を守ることが基本だったのです。周りの国々はイスラエルが一つになって強くなることを恐れ、まず、ペリシテ人が攻め寄せてきました。ペリシテ人は鉄を用いる先進文化をもつ強大な民でした。イスラエルは恐れて、サウルの軍隊からも逃亡者が出てきました。サウルも恐れていました。神さまの助けが欲しいと思いましたが、礼拝を導いてくれるサムエルはまだ来ません。サウルは自分でささげものをささげようとしました。主を恐れるより民の目を恐れ、形を整えることに心を向けたのです。彼は全焼のいけにえと和解のいけにえを用意させました。でも、罪のささげものはささげませんでした。悔い改めはなかったのです。その後でサムエルが来て、サウルが、主を恐れ、主を信頼して、主のお導きを待つのでなく、敵を恐れ、王としての分を超え、祭司のつとめまで自分でしようとしたことを責めました。それも悔い改めを欠き宗教的な形だけ整えようとしたものでした。サムエルは、本当に主を恐れ主を大事にする姿勢をもったならその王権は長くつづいたのに、人の目を気にして形だけ整えようとするいき方では王権は長くはつづかない、と言いました。「主よ。人目を恐れ形を整えることではなく、主を求め主を信頼する信仰を与えてください。」と祈りました。
1サムエル記 14章
「大人数によるのであっても、少人数によるのであっても、主がお救いになるのにさまたげとなるものは何もない。」 (サムエル記1 14:6)
イスラエルとペリシテ人とが対峙していたとき、多くのイスラエル人は恐れて逃げ出しましたが、サウルの子ヨナタンは、道具もちの若者ひとりを連れて敵陣に向かいました。彼は敵と味方の戦力の違いではなく、主にのみ目を向けていました。若者はそのヨナタンを信頼して、彼に命を預けていました。信頼で結ばれた二人が敵陣に姿をあらわし、ペリシテ人を打ち倒すと、ペリシテ人の陣営に大混乱が起こり同士討ちが始まりました。それを見て、ペリシテ人に従ってきたヘブル人も、隠れていたイスラエルも、あちこちからペリシテ人に襲いかかり、ペリシテ人は敗走しました。イエスさまも「2,3人、わたしの名によって集まるところにはわたしもいる。」と言われています(マタイ18:20)。ペリシテ人の混乱がはじまったとき、サウルは、祭司に祈りをささげさせましたが、敵の混乱が大きくなるのを見ると中止させ、追撃に向かい、兵士たちには、敵を打ち破るまでは何も食べるなと誓わせ、空腹に耐えられなくなった兵士たちが分捕り物を血のまま食べていると聞くと、石を用意しその上で血を流させてから食べるようにさせました。自分が非難されないように、形を整えようとしたのです。不信と自己防衛を隠した装われた敬虔です。しかしそれはイスラエルの力を殺ぎ混乱を招くだけでした。主もお喜びになりません。「かたちを整えることではなく、主を信頼し信仰をともにする交わりに生きる歩みにお導きください。御霊さま。」と祈りました。
1サムエル記 15章
「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」
(サムエル記1 15:22)
サウルの王権が確立したとき、サムエルは、サウルに、主によって、アマレクを打ち、彼らを聖絶せよ、と命じました。サウルはイスラエルから大軍を召集しアマレク討伐に向かいました。サウルは、イスラエルと友好関係にあったケニ人を巻き込まないように退避させ、アマレク人を打ちました。行き届いた指揮ぶりでした。しかし、アマレクの王アガグは殺さず生け捕りにし、肥えた羊や牛の良いものは惜しみました。主の名によって命じられたことに従いきらなかったのです。サムエルにそのことを責められたとき、それは主にささげるためだと言い訳をし、残りはすべて聖絶した、主に従った、と主張しました。また、幾らか残したのは民がそうすることを求めたからだ、と民に責任を転嫁し、サムエルにはっきりと主に従わなかったと責められると、罪を認めましたが、それは民を恐れたからだと言い訳をしました。そして、民の前で自分の面目を保ち、彼と一緒に帰ってくれるように求めました。彼は、主に従うよりも人目を気にしたのです。しかし、主は、他の何よりも主を第一にし主に聞き従うことを求められます。ですから、サウルを王にしたことを悔い、イスラエルを別の王に委ねるといわれました。しかし、そのことは主にとってもサムエルにとっても深い悲しみでした。主の民には、人が何と言おうと主に従う主を第一にする姿勢が大切です。“私も、人の目が気になる者です、主を第一にする思いを与え、主第一の歩みに導いてください”と祈りました。
1サムエル記 1章
「主は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくださいました。それで私もまた、この子を主におゆだねしいたします。」
(サムエル記1 1:27,28)
さばきつかさの時代が終わり、イスラエルに王が立てられる時代が来ました。この章は、イスラエル初代の王サウルと次のダビデを王位につけたサムエルの誕生の記事です。サムエルの父はエルカナ、母はハンナでした。ハンナは、夫には愛されていましたが、子がなかったので、子を産んだもう一人の妻ペニンナにいじめられ、つらい思いをしていました。彼らが礼拝するためにシロに上ったとき、ハンナは、その苦しみを主に訴え、男の子を与えられたらその子を主におゆだねします、と祈りました。彼女の祈っている姿を見て、祭司エリは彼女が酔っ払っているのだと思い、「酔いをさましなさい」と注意しました。ハンナは、「私はぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に心を注ぎだしていたのです」と答えました。エリは「安心していきなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように」と言いました。そのエリのことばを通して、彼女は、主が祈りを聞いてくださったことを確信しました。そのときから、彼女の顔つきは全く変わりました。祈るとき、こういう信仰の祈りをしたいものです。イエスさまは、「あなたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい」と言われました(マルコ11:24)。やがて男の子を授かったハンナは、その子が乳離れしたとき、その子を主にゆだねました。誠実な応答でした。ハンナが祈り、主が答え、ハンナが応答する、すばらしい歩みです。大預言者サムエルの背後にはこの信仰の母ハンナがいたのです。
1サムエル記 2章
「少年サムエルは、主のみもとで成長した。」 (サムエル記1 2:21)
この章は、ハンナがサムエルを主にゆだねたときに祈った賛美で始まります。「私の心は主にあって大いに喜び、私の角は主によって高く上がります」という最初の出だしが私たちの心をとらえます。ハンナは、主により、主を見上げ、主に身を寄せて歩む幸いを歌っています。彼女は、人の世の無力さを告白し、人の目にはとても動かせないと思う現実もいともやすやすと逆転させる主の御力を賛美します。この賛美を聞きながら、難しい問題に直面しても心配する必要はない、主は目の前に立ちはだかる壁を打ち砕き、天地をひっくり返す新しい世界を切り開くことがおできになる、と語ってくれる声を聞いたように思いました。こういう信仰をもってハンナはサムエルを主にゆだね、毎年、礼拝のためにシロに上って、サムエルに会っていました。恐らくそれがサムエルの信仰の成長を助けたことでしょう。サムエルは祭司エリのもとで主に仕え(11,18)、主のみもとで成長しました(21)。しかし祭司エリの家は荒れていました。二人の息子たちは祭司の権威を悪用し、自分たちの利益を求め、主を軽んじ、主へのささげものを自分たちのほしいままに取り立てていました。エリは年を取っていて、彼らを抑えられませんでした。そういうエリ家の歩みに主は怒り、エリの家に災いを下す、と言われました。この個所の聖書のみことばを思い巡らし祈りました。「主よ。私は、人ではなく、主を前にし、主に背を押されて歩む人生を歩みたいのです。その歩みを家族とともに歩みたいのです。あなたに不可能はありません。お導きください」と。
1サムエル記 3章
「こうして全イスラエルは、ダンからベエル・シェバまで、サムエルが主の預言者に任じられたことを知った。」 (サムエル記1 3:20)
さばきつかさの時代は、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた時代でした。祭司エリの二人の息子ホフニとピネハスは、祭司でありながら、主をあなどり、自分中心の歩みを続けていました。エリはそのことに心を痛めていましたが、それを止めることはできませんでした。そういう中で、サムエルは主の宮で主に仕えていました。そのサムエルに主は声をかけ、彼を呼ばれました。サムエルは、それが誰の声かわからず、すぐエリのところに走っていきました。そういうことが三度繰り返され、エリは主がサムエルを呼んでおられるのだと悟り、サムエルに、「その声が聞こえたら、『主よ。お話しください。しもべは聞いております。』と答えなさい。」と言いました。主はもう一度サムエルに声をかけられ、サムエルがエリの指示に従いますと、主はエリの家にたいするさばきを告げられました。サムエルはそのことをエリに話すことを恐れました。しかし、エリに促されてのことでしたが、エリに主のおことばを告げました。そのときから、主はサムエルとともにおられ、彼のことばは一つも地に落ちることはなく、全イスラエルは、サムエルが主の預言者に任じられたことを知りました。主の預言者誕生の出来事でした。主が語られることをよく聞き、誰をも恐れず、はっきりと主のみことばを告げる人が主の預言者に任じられるのです。主に立たせられている牧師や伝道者がはっきりと主のみことばを語ることのできるよう祈ることの大切さを覚えます。
1サムエル記 4章
「彼女は、『栄光がイスラエルから去った。』と言って、その子をイ・カポデと名づけた。」
(サムエル記1 4:21)
イスラエルはサムソンの時代からペリシテ人の支配下にありました。このペリシテ人のくびきを払いのけようとして、全イスラエルは連合してペリシテ人に戦いを挑みましたが、惨めな敗北を喫しました。そのとき、イスラエルの長老たちは、神の箱を持って戦いに臨めば、主は勝利を得させてくださるだろう、と言って、神の箱を持ち出しました。祭司であったホフニとピネハスが同行しました。自分たちの都合で神を利用しようとしたのです。神の箱を見ると、イスラエルの戦意は燃え上がり、大歓声が湧き上がりました。それを聞いたペリシテ人は恐れましたが、戦意がくじかれるどころか、男らしく戦おうと奮い立ちました。イスラエルはさんざんに打ち破られ、神の箱は奪われ、ホフニとピネハスは死にました。その知らせを聞いたエリは大通りに設けられた高い席の上から仰向けに落ち、首の骨を折って死にました。先にサムエルに告げられたエリの家にたいする主のさばきの預言が成就したのです。そのとき、ピネハスの妻は瀕死の状態で出産し、男の子を産みましたが、彼女は「イスラエルから栄光が去った。」と言って、その子をイ・カポデと名づけました。しかし、そのとき、サムエルのことばが全イスラエルにいきわたっていたのです。主のみことばに立つ純粋な信仰がいきわたるためには、自己中心の宗教体制が打ち倒されなければなりませんでした。主は軽んじられ利用される御方ではありません。おそるべき御方、聞き従うべき、信頼すべき御方です。
1サムエル記 5章
「アシュドデの人たちが、翌日、朝早く起きてみると、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって、倒れていた。」 (サムエル記1 5:3)
ペリシテ人は、神の箱がイスラエルの陣営に到着したとき、非常に恐れました。主が多くの力あるみ業によってエジプトを打ち、カナンの王たちを滅ぼされたことを知っていたからです。それで、死に物狂いになってイスラエルと戦い、大勝利をおさめ、神の箱まで手にいれてしまいました。それで、自分たちの神ダゴンがイスラエルの神に勝ったと思って、神の箱を自分たちの神ダゴンの宮に運びこみました。ところが翌朝、ダゴンは神の箱の前にひれ伏し、倒れていました。それをもとのままになおすと、次の日の朝には、ダゴンは頭と手とを切り離されて、神の箱の前にうつぶせに倒れているのが見つかりました。主はイスラエルの主であるだけでなく、世界中どこででも恐れられ尊ばれなければならない御方であることが示されたのです。さらに、主はアシュドデの人たちを腫れ物で打たれました。ペリシテ人は神の箱をガテ、次にエクロンにまわしましたが、どこでも、同じでした。こういう事態を目の前にしてペリシテ人の領主たちが集まり、相談しました。彼らは「イスラエルの神の箱を送って、もとのところに戻っていただきましょう。私たちと、この民とを殺すことがないように。」と言いました。イスラエルは神の箱を利用して勝利を得ようとし、ペリシテ人は自分たちが勝利し神の箱を奪ったと思いましたが、主はご自身が主であることを示し、ご自分でご自身の選んだ所へ帰ることのできる御方であることを示されたのです。主は崇むべき御方です。
1サムエル記 6章
「だれが、この聖なる神、主の前に立ちえよう。」 (サムエル記1 6:20)
イスラエルは主を軽んじ自分たちの戦争に神さまを利用しようとして神の箱を持ち出し、戦いに敗れ、神の箱を奪われました。神の箱を奪ってイスラエルの神に勝ったと思い神の箱を自分たちの神ダゴンの前に置いたペリシテ人は、ダゴンが神の箱の前にうつぶせに倒れているのを見、その町々では多くの人々が腫れ物で死にました。彼らは神の箱にイスラエルに戻ってもらおうとしました。彼らは、イスラエルでは神さまにたいして罪過のいけにえをささげることを聞いていましたから、神の箱に、自分たちの町と領主の数だけの金の腫れ物の像と町々の数の金のねずみの像をそえて、新しい車に乗せ、子持ちの牛を車につなぎ、子牛は牛小屋に残し、牛の行くままにさせました。イスラエルの神に対する恐れと疑いと不信の入り混じった気持ちがよく現われています。牛は、まっすぐにイスラエルの町ベテ・シェメシュに向かい、ヨシュアという人の畑で止まりました。主はペリシテ人にも御自身が主であることを示されたのです。ベテ・シェメシュのイスラエル人は喜び、その車の木を燃やし、その牛を全焼のいけにえとしてささげました。しかし、彼らも主にたいする恐れを欠いていました。箱の中をのぞいたので、多くの人々が死にました。そのとき、彼らは「だれが、この聖なる神、主の前に立ちえよう。」と告白しました。イスラエルの人々は、なお、主に対する恐れを学ばなければならなかったのです。主は、私たちが主を聖なる神としておそれ、さらに自分の救い主また主として信頼し愛することを望んでおられるのです。
1サムエル記 7章
「サムエルはイスラエルのために主に叫んだ。それで主は彼に答えられた。」
(サムエル記1 7:9)
神の箱はペリシテ人の地からイスラエルに帰り、キルヤテ・エアリムのアビナダブの家に落ち着きました。彼の子エルアザルが祭司として仕えました。そうして20年という月日が過ぎました。その頃、偶像を捨てて、主に立ち返れ、というサムエルのメッセージが全イスラエルに伝わり、彼らは偶像を捨て、主にのみ仕えました。サムエルは全イスラエルをミツパに集め、罪を告白し、イスラエルは悔い改めの実を示しました。イスラエルが一つにまとまりはじめました。そのことを聞いたペリシテ人が攻めてきましたが、イスラエルは、サムエルに、祈ることをやめないように求め、ペリシテ人に立ち向かいました。信仰に立ったのです。サムエルは主に祈り、主はサムエルの祈りに答え、雷鳴をとどろかせ、ペリシテ人を打たれました。イスラエルは大勝利を収め、それ以後、ペリシテ人はイスラエルに侵入してくることはなくなりました。サムエルは一つの石を立て、エベン・エゼルと名づけて、勝利の記念としました。こうして、サムエルは全イスラエルをさばきました。彼の生きている間、主の手がペリシテ人を防いでいました。ひとりの信仰に立つ人の存在が国を救ったのです。サムエルはイスラエル各地を巡回し、イスラエルを治め、指導しました。自分の住まいの町ラマにも祭壇を築いて主を礼拝しました。主第一の生活を目指したのです。私もまず自分が主を信じ、主第一の生活を確立することを求め、心の内に主の御霊をお迎えしよう、と心を定めました。
1サムエル記 8章
「彼らのした事といえば、わたしを捨て、ほかの神々に仕えたことだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。」 (サムエル記1 8:8)
サムエルは信仰深く献身的なさばきつかさでしたが、その子どもたちは父のようではありませんでした。サムエルは二人の子どもたちをイスラエルのさばきつかさに任命しましたが、彼らは、父を離れ、利得を求め、わいろを取り、正しいさばきをしませんでした。そのことを理由にして、イスラエルの長老たちは、自分たちにも、他の国々と同じように王を立ててほしいとサムエルに言ってきました。サムエルは、怒って彼らを追い返すのではなく、主に祈りました。そのとき、主は、「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。」と言われました。一生懸命イスラエルのために働いているのに、彼らに背かれるサムエルを慰め、“イスラエルはずっと主を捨て、他の神々に目を向けてきた、その本性がサムエルにたいする要求の奥に隠れているのだ”と主は、イスラエルの反逆に悩まされつづけてきたご自身の悲しみをサムエル洩らされました。サムエルは、自分たちの力を強め、自分たちの名を上げようとして王を立てるなら、その王は今度は逆に、国民を自分のために利用し、国民は王の奴隷にされる、と警告はしましたが、主のお示しに従い、民の求めに応じて王を立てることにしました。民は実際に経験してはじめて、自分の間違いに気がつくことを主によって知ったのです。でも経験して間違いに気づくよりも、すなおにみことばに従う者でありたいと思います。
した。
アーカイブ(先週分)
2024年 月 日