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工場の花輪3
今週のことば

毎週に一度、一日一章ずつ解説をお届けいたします。

​7月はヨシュア記です。

<<ヨシュア記>>

 

 ヨシュア記は旧約の12の歴史書の最初の書

(ヘブル語聖書では預言者の書の最初の書である)

ヨシュア記から列王記まではイスラエル民族の全史であって、南北両王国への分裂を含み、エ

ルサレム陥落とバビロン捕囚で終わっている。

歴代誌は再びイスラエル史のはじめから筆を起こしているが、しかし王国分裂後については南

王国ユダのみを扱っている。

 旧約聖書の歴史書の時代は次のように大別することができよう。

  ①神政             ヨシュア記、士師記、ルツ記  1,400〜1,100b.c.

   カナンの征服と定住

  ②王政             サムエル記第一〜歴代誌第二  1,100〜600b.c.

  ③異邦人による支配  エズラ、ネヘミヤ、エステル記  600〜400b.c.

   異邦人の間へのイスラエルの離散と回復

 ヨシュア記は約25年間のことを記している。

 

A.分 解

 1〜12章  カナンの占拠      1-5章 約束の国に入国①

                  6-12章 約束の国の占領②

13〜21章  カナンの征服・割当て③

              征服された領域       13〜17章

              未征服の領域        18〜19章

              特定された町々      20〜21章

   22〜24章   ヨルダン東岸の定住④  22章 ヨシュアの告別・決別     23〜24章

 

1.カナンの占拠   1〜12章

 イスラエルの人々は神の約束の地を獲得するために7つの手段を用いた。

神の約束の祝福を受けるための方法

 a.指導者は神により任命された。1:1−11

 ヨシュアはモ−セの死後直ちに任命された。1:1−2神は人の指導を通して働かれる。

「ヨシュア」の名は「主は救い」との意味であり、「イエス」に相当するヘブル語である。

 b.民族の一致 1:12−18

 ルベン、ガト、マナセの各部族はすでに所有地を獲得していた。しかしまだ領土を持たない他の諸部族とともに戦うことをよしとした。領土が占領されるまで、イスラエルのすべての部族が一致して戦った。

 c.神が約束されたことを信仰をもって調べた。 2章

 ヨシュアは二人の斥侯(12人ではない)をエリコに遣わした。この二人はともに信仰の人であった(2:14を見よ)。彼らはエリコの陥落は確かであるとし、ラハブにその想定の下で約束を与えた(2:18)。この斥侯の信仰は勝利が確かであるとの彼らの想定の中に見ることができる。

 d.奇蹟 3〜4章

 人間の努力を通してなしうることと、神の力によってのみなされうることとの間には、明確な区別がなされなければならない。

 例:私たちは聖書を学ぶことができる。しかし、真理のみことばを正しく解き明かすことができるのは、神のみである。私たちは説教することができる。しかし、人にはっきり罪を認めさせることができるのは、神のみである。

 ヨルダン渡河はイスラエルには不可能であった。神は奇蹟をもってその民が自分ではできなか

ったことをさせておられる。

 e.神への聖別 5章

 ヨルダンを奇蹟的に渡河できた後に、イスラエルの新しい世代は割礼を施され、神にささげられた。これはエジプトや荒野でなされた奇蹟が、その目撃者たちに霊的な進歩を引き起こさせなかったのと対照的である。

 ヨシュアに対する「主の軍の将」(5:13−15)は、

モ−セに対する「柴の中の炎」(出エジプト記3:2−6)による顕現と比べられる。

 f.信仰による徹底した服従 6〜7章

 エリコは約束の地に入る道に立ちはだかっていた。これを征服しない限り、約束の地を占領することはできない。

 信仰をもって、イスラエルは町のまわりを7度回れという奇妙な神の命令に従った。エリコの人々は町の城壁に信頼をよせていた。イスラエルは神に信頼し、みことばに服従した。

 この都市攻撃の方法は

①敵を困惑させた。(Ⅰコリント10:4を見よ)

②神に従ったゆえに成功した。

   公式 信仰+服従=勝利

 この大勝利に続いたのは、一人の不信仰のゆえの敗北 7章

 この出来事は一人の罪が、いかに多くの人々に影響を及ぼすかを示している。

 g.戦闘 8〜12章

 勝利は信仰と服従によるだけでくるときがある。また私たちの側の非常な努力が必要とされる時もある。エリコ以外の町々は、奇蹟によってではなく、戦いによって征服されたのである。4つの戦いが記されている。

 ①アイの戦い 8章

 アイは一人の罪のために敗北を喫した場所であった。しかし今や、戦闘が始まる前にすでに約束されたように、勝利の場所となった(8:1)。

 ②失敗 9章

イスラエルがギブオンの人々によって欺かれたのは次の理由による。

(a)敵の欺瞞

欺きはサタンの標準的手段である。サタンはめったに自分の姿をそれとしては現わさない。

(b)神の民の不注意 9:14 

極めて簡単なことに見えたので、主の指示をあおがず自分自身の判断に頼った。

  ③南の王の連合軍の敗北 10章

 5人の王がイスラエルに抗して連合したが敗れた。それは次のことによる。

(a)ヨシュアの戦略の巧みさ 10:9

(b)神が働かれたこと      10:11

(C)ヨシュアの祈り                10:12

この祈りは聖書に記された祈りの中でも最も偉大なものの一つである。金星がこの時、地球に近づき、地球の自転に影響を与えた、との説もある。

  ④北の王の連合軍の敗北 11章

(a)神は特別の奇蹟は与えられなかったが、勝利を約束された。11:6

(b)ヨシュアは同じ速攻法を用いた。11:7(10:9に前例がある)

 この部分はキリスト者の勝利の道について教えられることが多い。

 

2.征服された領域   13〜17章

 約束の地の南部、中部、ヨルダンの東岸は5部族に分割された。

ルベン、ガド、半マナセ      ヨルダンの東 13章

ユダ、エフライム、半マナセ    ヨルダンの西 14〜17章

15章は国土の登記台帳のようである。

ヨセフ部族(エフライム族とマナセ族)の人々の不平。17:14−18

 ヨシュアは自分たちの領土が小さすぎるという不平に対して、行って(15節)征服すべきことを提案した(18節)。

 これは教会の中で働くために十分な機会を与えられていないと感じている人々を牧師が助け得る二つの方法を示している。

     進取    新しく始めることができる活動と奉仕。

     征服    新しい地域または集団の中での伝道。

 以上は、牧師は常に教会の現勢よりも大きな構想を持っている必要があることを示す。

彼は教会内で必ず進歩があるべきことと、また教会外の、伝道を要している所に気づいていなければならない。

 

3.未征服の領域   18〜19章

 7部族は計画上では領土を得ていたが現実はそうでなかった。これらの部族は次のことによって、その土地を獲得するように励まされた。

 a.想定の明細書を持つこと。18:4,9

 聖書は神が私たちのためになされることの明細書である。それは私たちが獲得できることを記述したものである。

 b.信仰をもって、割り当て地を受け入れること。18:6

 境界が明確に定められ、各々の部族はたがいに他の部族を干渉することなく進むように指導された。

 

4.特定された町々   20〜21章

 ここに示される町はすべて特殊な町であって二種類に分けられる。

 a.のがれの町 20章

 三つはヨルダンの西岸、三つは東岸にあった。これは知らずに人を殺してしまった殺人者を保護するために定められた。殺された者の家族による復讐が防がれ、公正が行なわれるためであった。

 b.レビの町 21章

 12部族に与えられた領土の中に、レビ人のため、48の町が定められた。レビ人はこのようにしてイスラエルの中で他の部族からの惜しみない分与によって生活することができた。この意味でレビ人は「信仰によって生きる」人たちの前例となった。

 

5.ヨルダン東岸の定住   22章

 ルベン、ガド部族と、マナセの半部族は帰還してヨルダンの東側の所有地に定住することになった。ヨルダンの岸辺に彼らは「大きくて、遠くから見える」祭壇を築いた(22:10)。これが他の部族の誤解を招くことになった。この話の教えている真理は、行動を起こす前に往意深く調べてすべての事実を明らかにせねばならないということである。神の民の間に起こる誤解の多くは、事実の半面のみしか知らないこと、あるいは外観によって裁くことからくる。

 

6.ヨシュアの告別   23〜24章

 a.彼のイスラエルに対する最後のいましめ。 23:11

 敵はまだ根絶されたのではない。それでイスラエルがその敵の仲間入りをする危険がまだ残っていた(23:12,13)。この危険は主を愛することによって防ぎ、避けることができる。

 b.彼の遺言 24:1−28

 ヨシュアはここで神の預言者として語っている。神の用いられた「わたし」という言葉が、2〜13節のところに14回(新改訳では)出て来る。イスラエルの歴史の中で偉大なことのすべては神より出たものである。

 c.彼の死 24:29−33

 ヨシュアは110歳であった。彼はその生涯を通して信仰の勇者であった。

 

B.ヨシュア記の特色

 1.一人の罪が神の民全体に及ぶ。 7章

 2.多くの戦闘のことが記されている。エペソ書のようにヨシュア記は霊的な戦いと勝利の書である。

 3.各部族の領土のことを記述している部分(15〜19章)は、公文書のようである。

C.特に目立った人物

 1.ヨシュア

 2.カレブ 85歳になってもなお若い者のように戦うことができた。14:10−12

 3.ラハブ

 

D.この書に見られる動き

荒野から約束の地へ(約束が事実となった)。

 

E.キリストの啓示

 ヨシュアが人々を勝利へ、約束の地へ導き入れたことは、イエスが霊的な勝利と安息に導かれるみわざをよく例証している。ヘブル書4:8−11

 

 

 

2024年6月23-6月29日(申命記22-28章)

申命記 22章

「すべてあなたの同族の者がなくした物をあなたが見つけたなら、同じようにしなければならない。見ぬふりをしていることはできない。」

                        (申 22:3)

私たちは自分のことは大事にしてほしいと思うのに、隣人のことはないがしろにしがちです。しかし、主は、隣人のいのちも、その人の生活のすべて、持ち物、また名誉も大事にすることを命じられます。それは、自分が愛されていることを知り、自分も自分自身を大事にし、自分自身を受け入れているところから出てくる生き様です。自己中心の利己愛でなく、神が創造された自分自身を愛するの自己愛が大事なのです。イエスさまも、律法でいちばん大事なのは、主を愛すること、そして、自分自身のように隣人を愛することだ、と言われました(マタイ22:39)。まず主を愛し、主が愛されている自分自身を愛し、その自分を大事にするとき、他の人に憧れ、その人の真似をするような生き方をしなくなります。主がお造りくださった自分自身にふさわしい生き方を求めるようになります。そして、隣人を主が与えられた者として大切に思い、彼を自分と同じように愛するようになります。このことがわかると、持ち主のわからない家畜でも大事に保管してやれ、気づかず滑り落ちないように手すりをつけよ、隣人の名誉を傷つけるな、男なのに女の衣装を身につけたり、不自然な組み合わせや混ぜ物を求めたりするな、配偶者以外の異性と交わるな、という戒めの意味がわかります。私を愛し、そのみこころにしたがって私を造ってくださった主に感謝し、主が造ってくださった私自身を大切にし、主が与えてくださった隣人を愛し大事にする者としてくださるように、御霊の助けを祈ります。

申命記 23章

「あなたの神、主が、あなたを救い出し、敵をあなたに渡すために、あなたの陣営の中を歩まれるからである。こうして、あなたの陣営は聖でなければならない。」

                       (申 23:14)

 イスラエルは、主の民とされ、主のみ前にきよく歩むように導かれました。イスラエルはきよくなければなりませんでした。去勢された人や不倫の子など性的な汚れを引きずっている者や、イスラエルを偶像礼拝にひきづり込もうとしたアモン人やモアブ人の子孫は、そのままでは、仲間に入れませんでした。しかし、主は、イエスさまを信じる信仰によってエチオピアの宦官を救い、姦淫の女も赦されました。イエスさまの血潮はいかなる者をもきよめることがおできになるのです。感謝です。イスラエルは、戦陣にあってもきよく歩み、神殿娼婦や神殿男娼を排除し、いかがわしいお金を主にささげるようなことはしてはなりませんでした。主人のもとを逃れてきた奴隷を保護し、兄弟からは利息を取らない、あたたかい関わりを大事にするように命じられました。くちびるから出ることばはあくまで守り、隣人の畑で食べさせてもらうとき必要以上に持って帰るようなことはせず、誠実でつつしみ深い交わりを育てるように言われました。彼らがそういう生活に励む原動力は、主が自分たちを愛してくださっていることを信じる確信、そして、主が自分たちとともに歩んでくださっているという自覚でした。私たちは主の民と呼ばれるには相応しくない罪人です。しかし、主は私たちを愛してイエスさまの血潮という尊い犠牲を払って救ってくださり、ともに歩んでくださいます。感謝して、きよい、兄弟愛に満ちた歩みに導いてくださるよう、御霊のお導きを祈ります。

 

申命記 24章

「あなたがエジプトで奴隷であったこ、そしてあなたの神、主が、そこからあなたを贖い出されたことを覚えいなければならない。」(申 24:18)                       

 イスラエルは、自分の権利や都合、また好みを第一にするのでなく、主第一の、きよくあたたかい共同体をつくりあげるように求められました。好きになると結婚し、飽きれば離婚し、情況が変わればまたよりを戻すようなだらしない関係でなく、誠実に結婚関係を守るように命じられました。結婚した最初の1年間は二人の関係に集中できるように配慮されました。感染する危険のある病気はきちんと処理して社会をきよく保つようよう指示されました。お互いを大事にし、自分の利益のために他人を奴隷にしたり、お金を貸した人の生活まで危うくするようなきびしい取り立ては禁じられました。賃金はその日のうちに支払い、在留異国人やみなしごの権利をおかさず、貧しい人も生活できるように、互いに助けあう社会の仕組みが考えられました。収穫のとき、後で貧しい人が拾えるように取り残しを残すことが命じられました。こういう生活をするように勧めるときにモーセが根拠にしたのが、今日のみことば、「あなたがエジプトで奴隷であったこ、そしてあなたの神、主が、そこからあなたを贖い出されたことを覚えいなければならない」でした。自分の苦しかったときのことを思い起こし、そこから救いだしてくださった主の愛を思い起こすことがあたたかくきよい歩みの原動力なのです。私たちにとっても、自分の罪を認め主が恵みをもってそこから救い出してくださったことを思い起こすことが、主を愛し主の民を愛する歩みの基礎であり原動力なのです。

申命記 25章

「四十までは彼をむち打ってよいが、それ以上はいけない。それ以上多くむち打たれれば、あなたの同胞はあなたの目の前で卑しめられることになる。」

                        (申 25:3)

 主は、主の民の間では、正しいことが行われ、悪いことは罰せられ止められるように、命じられました。しかしその罰には限界が設けられました。争いごとを起こした場合、悪い人はむち打たれましたが、四十回で止めておかなくてはなりませんでした。その人も神のかたちに造られた人格をもつ兄弟だからです。人格を重んじるなら、触れてはならないところで止まる必要があります。男同士が争ったとき、夫を守るためであっても、妻が相手の隠しどころに手を出すような、人の人格の尊厳を傷つけることは厳しく罰せられました。お互いを兄弟と認める姿勢から、イスラエルは自分たちの共同体を守り育てることを大事にするように命じられました。夫が死に子どもがなくて家が絶えるおそれに直面した未亡人には、夫の兄弟と結婚して子どもをもうけ、夫の家を継がせる備えがなされました。しかし、当人の人格を無視して無理やりおしつけることのない配慮もなされていました。このあたたかさは、脱穀をする牛にくつこをはめて食べられないようにはするな、というところにまで及んでいました。しかしあたたかさを求めることが正しさをくらまさないことが必要でした。二種類のはかりを用いてごまかすことは禁じられ、悪は見過ごさないように命じられました。お互いを神さまのご覧になるような見方で見、正しさとあたたかさをもって見ることができるように、御霊のお導きを求めました。

 

申命記 26章

 

「あなたの神、主が、あなたとあなたの家に与えられたすべての恵みを、あなたはレビ人および、あなたがたのうちの寄留者とともに喜びなさい。」

                       (申 26:11)

この章は、4章から続く、モーセの二つ目の説教の最後のしめくくり部分です。モーセは、イスラエルに、最後に命じました。彼らが約束の地に入ったならまず産物の初穂をもって主のみ前に出、自分たちはさすらいのアラム人の子孫で、エジプトでは奴隷とされていたが、主はそこで大いなる国民とし、エジプトから連れ出してこの地に導きいれてくださったと告白し、ささげものを主にささげ、そのおさがりを皆でいっしょに食べて喜び楽しむように、と。そしてその喜びの集まりにはレビ人や寄留者も招くように、と命じられました。私たちも、主のみ前に、自分の惨めだったときのことと主の恵みとを覚え、告白します。それが主の民の生活の出発点であり、土台なのです。そして主の恵みの賜物をすべての人とともに喜び楽しむ、開かれた姿勢を育てることが大切です。主の民は苦しんでいる人、誰にもかまってもらえない人をも助ける民なのです。イスラエルでは、収入の十分の一を主ささげることが命じられていましたが、その他に三年ごとにまた別の十分の一をささげ、それで、レビ人、寄留者、やもめ、みなしご、等、貧しい人を助けるように命じられました。主はイスラエルを宝の民とし、栄えさせ、りっぱな国にする、と言われましたが、それはイスラエルがこういう歩みをするためでした。私たちにも、この助けあいの姿勢を学び、身につけさせてください、と祈りました。

 

 

申命記 15章

「あなたは七年の終わりごとに、負債の免除をしなければならない。」

                        (申 15:1)

主の民は豊かで平和な社会を目指します。そこでは、一人ひとりが自立し、ひとの助けを借りる必要がなく、むしろ困っている人を喜んで助ける備えができています。そのような社会を形づくるのを妨げることの一つが借金苦による貧しさです。ですから、モーセは、イスラエルに、貧しい人に貸した人は、7年目にはすべての債務を免除してやるようにと命じました。そして、返ってこないのなら貸さない、というようなことのないように、貧しい同胞を見たら、その人にたいして、心を閉じてはならない、また手を閉じてはならない、と命じました。貧しい人を見たときは、まずその人に心を開くことが大切です。それだけでなく、手も開く。心で同情するだけでなく、具体的な助けをすることが大切です。そのような生き方が、社会を豊かにし、平和を育てるのです。そのような生活は神さまが自分にどんなに大きな恵みを与えてくださったかを思うところから生まれます。イスラエルにとっては、エジプトの奴隷であった彼らを主が贖い出してくださったことを思い出すことが出発点でした。主を第一にすることが愛の共同体を建てるスタートであり、土台なのです。このゆるしの年の規定は奴隷についても適用され、奴隷は7年目には解放するように命じられました。このような助け合いの精神は、イエスさまの救いにあづかった私たちにとってはよりふさわしいものです。主よ.私も、あなたを第一にし、貧しさや苦しに押しひしがれている人とともに生きる歩みに少しでも近づきますように、御霊さま、助け導いてください、と祈りました。

 

 

申命記 16章

「それは、あなたがエジプトの地から出て来た日を、一生の間、覚えているためである。」

                        (申 16:3)

イスラエルは三つの祭りを守るように指示されました。過ぎ越しと、7週の祭りと、仮庵の祭りの三つでした。イスラエルが、自分たちが救われたときのことを覚えているためでした。私たちも、私たちの救いの原点を覚えることが大切です。クリスマスでイエスさまが人となってくださったことを覚え、受難週とイースターでイエスさまの十字架の死と復活を覚え、ペンテコステで聖霊が来てくださったことを覚えるのは大事です。個人的にも、自分がどのようにして救われたかを覚えることが大切です。初めて神さまを意識した時、イエスさまを信じて洗礼を受けた日、主の召しにお応えした時のことなど、繰り返し繰り返し思いめぐらすことが大事です。主の祭りは、定められた時、定められた場所で、皆がいっしょに集まって守りました。主を礼拝するのは個人的なことではなく、共同体全体の大事な行事なのです。そこでは、皆がいっしょに食事をしました。家族だけでなく、奴隷、レビ人、在留異国人、みなしご、やもめもともに招いて楽しみました。そのとき、だれも空手ではなく、主へのささげものを持って集まりました。主のことを大事にし、ともに主を仰ぐことがイスラエル社会の基礎だったのです。そして、その社会は、きちんと任命されたさばき人による正義のさばきに従う社会でした。「主よ.私も、皆といっしょに集まり、心を一つにしてあなたを礼拝し、あなたの恵みをともに喜ぶことを求めます。毎週の礼拝を大事にします。」と祈りました。

 

申命記 17章

「それは、王が自分の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばと、これらの掟を守り行うことを学ぶためである。」

                       (申 17:19)

 イスラエルは主の民となり、主を第一にする国を建てるように召されました。それは、イスラエルが主と親しい交わりを経験するためでした。主はそのような親しい交わりにご自身の民を導き入れたいのです。人格的な親しい交わりは相手を大事にし、相手に没頭するところで育ちます。他のものに心を向けるとその交わりは破れます。偶像礼拝は神さま以外のものを神とすることですから、神さまとの親しい人格的な交わり打ち破られます。ですから、主は偶像礼拝を憎まれるのです。イスラエルでは、偶像礼拝をする者は石打ちによって殺されました。しかし、まちがったり、誰かの策略に利用されることもありますから、慎重にさばきが行われ、間違いなく偶像礼拝者だと確認されたときだけ、刑が執行されました。偶像礼拝以外の日常的なさばきも、主の前で行われ、主を恐れて、そのさばきに従うことが求められました。王が立てられるときも、王は主を恐れ、国民が主を第一にして、主による王の統治に従うように指導することをじられました。王が自分の権力を自分勝手に振り回すことは禁じられ、レビ人から主の教えを聞き、いつもそれを覚え、その教えに従って国を治めることが求められました。イスラエルがすべて、主を第一にし、主との親しい交わりを喜び楽しみ、喜んで主のみこころを行う民となるためでした。「私も、みことばに聴き従います。兄弟姉妹とともに、その歩みを励ましあいます。御霊さま。助けてください。」と祈りました。

 

申命記 18章

「彼ら(レビ人)は、その兄弟たちの部族の中で相続地を持たない。主が約束されたとおり、主ご自身が彼らのゆずりである。」

                        (申 18:2)

レビ人には相続地の割り当てはありませんでした。レビ人の相続地は主ご自身でした。主へのささげもので生活するということでした。イスラエルは主の民、主を信頼し、主によって生きるように召された民で、その礼拝のつとめのために特別に選び分けられたのがレビ人でした。彼らは、主第一、主にのみすがる生活の模範を示すのです。彼らがその役割を果たすとき、イスラエルは信仰に満ち、有り余るほどのささげものをささげ、レビ人は豊かに生活できました。イスラエルが不信仰に落ち込むとレビ人の生活は苦しくなります。レビ人の生活状況はイスラエルの信仰の状態を示すバロメーターでした。今日では牧師の生活状態がその教会の信仰を示すと言えるでしょうか。イスラエルには占いやまじないを行う者がいてはなりませんでした。偶像礼拝に通じるからです。主はイスラエルが偶像に心を寄せず、主にのみ心を向け、主と一つになる交わりに歩むことを切に願っておられたのです。イスラエルは主のみことばを直接きくことを恐れたので、主は預言者をとおして語られました。主はみこころを知らせたいのです。やがて「ひとりの預言者」が起こされます。その預言者は代々の預言者でもありますが、究極的にはイエスさまです。私たちはイエスさまをとおして主ご自身のみことばを聞くことができるのです。感謝して祈りました。「主よ。私はイエスさまに聴き、イエスさまを主と信じ、イエスさまだけを頼りに生きます。御霊さま。そうさせてください。」

申命記 19章

「前から憎んでいたわけではない隣人を、意図せずに打ち殺してしまった殺人者に関する規定・・・その者はこれらの町の一つに逃れて生きることができる。」

                     (申 19:4,5)

この章には、逃れの町のこと、殺人の報いは死であること、地境を移してはならないこと、さばきには二人または三人の証言が必要であること、が記されています。主はいのちを重んじ、故意の殺人は死をもってさばかれます。しかし、間違って人を殺した者に逃れの町を備えられます。主は、人のいのちを大事に、どんな人をも何とかして生かしてやりたい、といろいろな道を備えてくださる御方なのです。それが頂点に達したのが、イエスさまの救いの道です.罪を犯した人々のために、神の御子イエス・キリストを人としてこの世に送り、罪人の罪を背負う十字架の死によって人罪人の罪を贖い、復活して、神にむかって新しく生きる道を開いてくださったのです。私たちは罪人で、ほんらいは神のさばきを受けて死ななければならない者であったのに、イエスさまによって、主のために生きることが許されているのです。イエスさまこそ逃れの町です。感謝して、イエスさまのみもとに留まろうと決心しました。地境を移さないという定めは、神さまが与えてくださったことは、そのまま受け入れるということの大切さを示しています。またさばきには二人、または三人の証言が必要だということは、軽々しく善悪の判断をして、ひとをさばかないように、ということです。「自分の思いや願いを神やひとにおしつけるのでなく、主が与えてくださることを感謝して受け、そこで主を崇める道を求めます。そうするように、御霊さま。助けてください」と祈りました。

 

申命記 20章

「あなたがたの神、主があなたがたとともに行って、あなたがたのために敵と戦い、あなたがたに勝利を得させてくださるからである。」 (申 20:4)                        

苦しみがあり戦いがあるのが人の世の現実です。個人でも国でも同じです。そのとき、自分の力だけでこれに立ち向かうとすれば、勝利はおぼつかないでしょう。しかし主は私たちを守ってくださいます。ともにいてくださり、先頭に立って戦い、勝利を得させてくださいます。モーセは、約束の地に攻め入ろうとしていたイスラエルに、主がともにいてくださり、ともに戦ってくださるから、恐れてはならない、と励ましました。しかし、イスラエルは何もしないでボーッと立っていれば良いわけではありません。主がともにいて戦ってくださることを信じ、自分たちも全力をあげて戦うのです。他のことに心を向けて立ちすくむような者が混じっていると、皆が一致し全力を尽くして戦うことができません。ですから、新しく家を建てた人、まだ収穫をしていない者、婚約したがまだ結婚していない人、恐れて弱気になっている人には、戦線を離れて家に帰るように申しわたし、主とともに戦う備えのできた者だけで戦うように、と命じたのです。約束の地の先住民たちは、皆、絶ち滅ぼせ、という厳しい命令は、神を恐れず、偶像を拝む、ふしだらな生活をすこしでもイスラエルに持ちこませないためでした。主に共にいていただくためにはきよくなければならないのです。私たちも、主がともにいてくださり、主が私たちのために戦ってくださることを信じて、主だけに心を向け、きよめを求めます。「主よ。そうします。そうさせてください。御霊さま」と祈りました。

申命記 21章

「あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる土地を汚してはならない。」

                       (申 21:23)

洗礼式のときには教会の秩序に従い教会の純潔を守る誓約をします。これはイスラエルが主の民としての自分たちの群れと主から与えられる相続地とをきよく保つようにした伝統を引き継ぐものです。私たちは、主の共同体をきよく保ち、そのすべてを大事にあつかうべきなのです。それは一人一人が心がけるだけでなく、皆が注意すべきことです。主の民のきよさを保つのは皆の連帯責任なのです。イスラエルでは殺人は死刑に処せられました。犯人がわからないときも、死人が発見されたところからいちばん近い町の長老たちが、雌の子牛によって贖いをしました。イスラエルでは、誰の責任かわからない罪も、イスラエル社会の連帯性の中で贖われきよめられたのです。私たちも、自分が意識している罪だけでなく、意識していない罪も赦されきよめられるよう祈ることが必要だ、と示されます。きよさというと、厳しさ、冷たさを連想しますが、聖書が示すきよさにはあたたかみがあります。戦争で捕虜にした女性も奴隷のようにあつかってはなりませんでした。また自分の思いではなく主の秩序に従うことが求められました。自分の好みで相続財産を分配するのでなく、先に生まれた者が長子の権を与えられました。親に従うことも命じられました。主による秩序に従うことが主の共同体形成の基礎だったのです。私たちも同じです。私たちも、洗礼式の誓いを思いかえし、教会の秩序に従い、教会のきよさを守ることに励む者でありたいと思い、主の助けを祈り求めました。

申命記 8章

「あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。」

                       (申命記 8:2)

モーセは、約束の地に入ろうとするイスラエルに語りました。「あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。」その歩みは、彼らの不信仰が明らかにされ、それにも関わらず、主が彼らを憐れみ、赦し、回復された歩みでした。そのことを思い返すのは、彼らが主を信じ、約束の地を所有し、栄えるためでした。主のご命令を守り、主の恵みを確実に自分のものとするためには、まず、今まで主がどのように導いてくださったかを思い返すことが必要です。自分自身がどんなに罪深く頑な者であるかをり、主がどんなに力あり恵み深いお方であるかを悟るためです。イスラエルの歩みには苦しいこともありましたが、それは訓練のためでした。また主は彼らに多くの賜物を与えてくださいました。しかし、それらの恵みの賜物に目が奪われて主を忘れたり、それを手にしたのは自分たちの力だとうぬぼれるようなことがあれば、たちまち祝福を失う、とモーセは、彼らに警告しました。自分の罪を認めてへりくだり、主の恵みを覚えて信仰を振るい立たせるためには、自分の今までの歩みを振り返り、自分の罪深さを知り、主の恵みを確認し、しっかりと主に目を注ぐことが必要です。モーセは命じました。「あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のように果たされるためである。」私も、主を前に置きます、御霊さま、お導きください、と祈りました。

申命記 9章

「しかし、彼らはあなたのゆずりの民です。」

                      (申命記 9:29)

約束の地に進み入ろうとしたイスラエルの民に、モーセは語りました。その地には城壁で囲まれた町々が多くあり、アナク人と呼ばれる大きく強い人たちも住んでいる、しかし、恐れてはならない、主がイスラエルの前を進み、強大な敵を打ち滅ぼし、その地をイスラエルに得させてくださるからだ、イスラエルが強いからでも、イスラエルが正しいからでもなく、主がイスラエルの先祖に与えられたお約束を果たすためだ、イスラエルは、荒野の40年間、どんなに不従順で罪深いものであったことか、私は彼らのためにとりなした、彼らは赦されたが、古い世代の者が荒野で死に絶え、新しい世代が約束の地に入ることになった、新しい世代が成人した今、約束の地に入る備えが整った、とモーセは語りました。人は何か良いことがあると自分が努力してそれを手に入れたと思うものです。しかし、本当は、そうではありません。主の恵みです。自分の弱さ罪深さを認め、へりくだって主の恵みを感謝して受けることが大切です。私たちの生まれつきのままの古い人は罪にとらえられていて、そのままでは神の国に入れません。イエスさまを信じ、御霊によって新しくされた霊の人が神の国に入るのです。しかし生まれつきの古い人は強大です。御霊による肉との戦いは大変な戦いです。しかし主は勝利されます。それが主のお約束です。そして、そのお約束の成就の背後には、彼らが主の民であるとの確信に立ったとりなしがあります。私たちのためにはエスさまがとりなしをしてくださっています。私たちも友のためにとりなしに励みたいと思います。

 

申命記 10章

「前のような石の板を二枚切って作り、・・・。」

                     (申 10:1)

イスラエルは荒野の生活に不満をもち、主を捨てて、エジプトに帰ろうとしたので、主は、彼らを滅ぼすと言われました。しかし、モーセのとりなしによって、思いなおし、イスラエルを受け入れられました。そして、モーセがもってきた石の板に、前の石の板に主が書かれたのと全く同じ文言を書き記されました。主のご本心は変わることがありません。変わるのは人の方です。それでも、悔い改めて主のみもとに立ち返るなら、主は赦し、受け入れ、変わることのない愛をもって愛しつづけてくださいます。主は、みこころを変えることなく、人が罪を犯しても、悔い改めるなら、何度でも、初めの愛を回復して、やり直させてくださるのです。その悔い改めて前進する民の先頭に立つようにモーセは命じられました。人の罪を責める人ではなく、悔い改めて進む人々の先頭に立つ人が必要なのです。主に立ち返った民にたいしては、主を大事にし、主を愛し、その愛が心の中のことにとどまらず、具体的な言動に表われるまで、生活のすべてに行きわたるように生きるように、と勧められました。そのためには、私たちの神、主がどんなに偉大な御方であり、愛に富み、孤児や、やもめ、また在留異国人に配慮される御方であるかを学んでいくことが大切です。変わりやすい人の世界のことに振り回されている現実と、変わることのない主のご愛とご誠実とを思いめぐらし、悔い改めて、主のみことばに耳を傾け、主の恵みの御業を思い返し、主の愛を知り、主を第一にし、主の愛に生きる者と変えてください、と御霊さまのお助けを求めて祈りました。

 

申命記 11章

「あなたがたは、私が今日あなたに命じるすべての命令を守りなさい。」

                        (申 11:8)

モーセは、イスラエルに、主は、子どもたちにではなく、あなたがた自身に語られるのだ、「あなたがたは、私が今日あなたに命じるすべての命令を守りなさい」と語りかけました。私たちも、主のみことばを自分自身にたいする語りかけとして聞くことが大切です。イスラエルが主のみことばを聞かなくてはならなかったのは、彼らが、紅海を干上がらせてイスラエルを渡らせエジプト軍を溺れさせられた主の偉大な御業を、またダタンとアビラムの事件をとおして主の聖を、自分の目で見たからです。また、彼らが渡って行って所有しようとしている地が乳と蜜の流れる豊かな地だからです。主はその地を主のみことばを守り行う民に与えられるのです。ですから、イスラエルは、主を信頼し、主のみことばに聴き従い、幸いな生活に入るように、と命じられたのです。主は彼らを祝福したいと思っておられるのです。しかし、横道にそれ、偶像に心を寄せるなら、彼らは滅びます。私たちも同じです。主は、今日、私たちが、主のみことばを聞き、主のみことばを心に刻みつけ、主が与えてくださる幸いを手にすることを望んでおられるのです。主を信じて主に従うか、自分を第一にするかは私たちのいのちに関わる重大事です。それは他の人ではなく私たち自身が聞かなければならない大事であり、また私たち自身が選ばなければならない大切な選択なのです。祝福か呪いかは、私たちの選択にかかっているのです。主よ、良い方を選ばせてください、と祈りました。

 

申命記 12章

「ただ、あなたの神、主が選ばれる場所で、あなたの息子、娘、男奴隷、女奴隷、およびあなたの町囲みの中にいるレビ人とともに、あなたの神、主の前で、それらを食べなければならない。あなたの神、主の前で、あなたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。」

                       (申 12:18)

12章から26章まではイスラエルが約束の地に入ったときに守るべきいろいろな規定です。まず、イスラエルは約束の地に入ったなら、その地のあらゆる偶像と偶像礼拝の名残を一掃するように命じられます。そして、主が選ばれる場所で、礼拝をささげ、そこで、家族や隣人とともに、主を礼拝し、主を崇めながら喜び楽しむように命じられます。礼拝については、場所も、礼拝の仕方も定められたとおりにするように命じられました。自分が正しいと思うやり方で主に仕えることは許されません。私たちが良いと思うやり方で主に仕えることは、主を崇めているようで、実は、自分の考えを主に押しつけることであり、私が主となり、主を私に従わせるやり方です。それこそ、的外れであり、罪なのです。主に従うことを学ぶために、礼拝の場所や礼拝の仕方などが定められたのです。その礼拝のときには、請願のささげ物や進んで献げるものなど交わりのいけにえをささげ、自分だけでなく、家族も、同居人も、近隣の人たちも招いて、皆で一緒に、主の御前で、自分たちの手の産物を喜び楽しむように勧められます。私たちがともに礼拝し、飲食をともにし、ともに喜び楽しむところには、主もまたともにいて、喜んでくださるのです。私たちも、ともに主を崇める交わりを多くの人々とともに喜び楽しませてください、と祈りました。

 

申命記 13章

「その預言者あるいは夢見る者は殺されなければならない。」

                        (申 13:5)

 

この章は、主との関係を危うくするものはすべて、どんな犠牲を払っても、断ち切らなければならない、主はイスラエルが心をつくし、精神を尽くして、ほんとうに主を愛するかどうかを知るために、彼らを試みられるからだ、という言明で始まります。そして、偶像礼拝に誘うものはすべて断ち切れ、超自然的な預言の成就や、不思議な超能力を現わす者を見ても、それに心を向けるな、偶像に心を向けるように誘う者が親兄弟、また親友のような近くて大事な人であっても、彼らに従ってはならない、そんな人は殺してしまえ、イスラエルの中の町がそういう誘惑の種になったとすれば、その町の住民は皆殺しにし、町全体を焼き尽くしてしまえ、と言われます。恐ろしく激しいことばですが、偶像礼拝の誘惑はそれほど恐ろしい誘惑なのです。主と私たちとの関係は、人格的な関わりですが、人格的な交わりは、相手第一、相手にくびったけ、他の何ものをも介入させない関係で相手と結びつくところで育ちます。その間にお互いよりも大事に思うものが入りこめば、ふたりの関係は断ち切られます。夫婦が、配偶者よりも魅力的な異性が現れたからといってそちらに心を向けると夫婦関係が破れるのと同じです。偶像礼拝がこれほどきびしく戒められているのは、主が与えてくださるのが、私たちと全人格的に一つとなる親密で深い交わりだからです。主は、私たちと、それほど親しく密な交わりをもちたいのです。感謝して「主よ。私は、主との深い全人格的な交わりを求めます。御霊さま。その交わりの深みに導いてください」と祈りました。

 

申命記 14章

「あなたがたは、あなたがたの神、主の子どもである。」

                       (申 14:1)

主の民として生きるとき、最も大事なのは、主を聖とすること、そして、主が自分を特別に愛してくださって、私を主の聖なる民、主の子としてくださったということを自覚すること、です。聖とするとは取り分けること、つまり特別扱いをするということです。主が私を特別に愛してくださっていると確認し、私たちも主を特別のお方とし、その方を第一にするのです。それが主を聖とするきよい歩みです。きよい歩みは、控えめで穏やかな生き方です。近親者が死んだからといって自分のからだを傷つけるような激しい反応を示したり、普通は食べないようなものを食べて人々の注目を浴びようとするような、人目を意識した歩みではありません。主を見上げて、きよい食べ物を食べ、汚れたものや人が目をむくような異常なものは避けます。しかし、他の人とは違うのだとお高くとまった生き方ではありません。おとなしく生活し、人間らしい温かみのある交わりの中で生きます。「子やぎをその母の乳で煮る」ような冷たくむごいことはしません。交わりのいけにえをささげ、レビ人や貧しい人々を招いていっしょに食事をします。3年に一度は、その年の収穫の十分の一を提供して、レビ人や在留異国人、また、みなしご、やもめ、など貧しい人々の生活を支えます。このモーセの勧めを聴いて、自分の中にある自己主張にひかれることなく、神の子とされた恵みを覚え、主を聖とし、主を信頼し、人々とともに、主に感謝し、主を賛美し、ともに主を喜びお互いを喜びあう、きよい生活に導いてくださるよう、御霊のお導きを祈りました。

申命記 1章

「このようなことによっても、まだなたがたはあなたがたの神、主を信じていない。」

                      (申命記 1:32)

申命記は、モーセが生涯の終わりに、これから約束の地に入っていくイスラエルの民に語った三つの説教の記録です。彼は、まず、エジプトを出てからのイスラエルの歩みを思い出すメッセージを語りました。それは、主の恵みを数える喜びに満ちた思い出ではなく、不信仰ゆえに主の怒りを買った失敗の記録でした。モーセは語りました。あなたがたは、エジプトを出てから、ホレブの地まで来て、主に、この地を与えているからそこに攻め入りそれを占領せよ、と言われながら、攻め上らなかった、先に遣わした斥候たちの、その地は良い地だという報告を聞いたのに、その地の住民は強大で攻め取るのは難しいという報告の方に心を傾け、不信仰のゆえに、攻め入ることを躊躇し、主の怒りを買った、主がお怒りになって、その世代の者はその地に入れない、次の世代の者たちが入るというおことばを聞くと、今度は、お前たちの中には主がおられないから止めよ、と警告したのに、聞かないで、攻め上り、散々に打ち負かされて退散し、その後、今まで荒野に止まり続けた、と語りました。目を背けたくなるような罪の歩みの思い出ですが、本当の自分の姿を真正面から見、自分の罪を認めることが、主の民としての出発点となるのです。私たちも、自分の罪の姿を直視し、自分の不信仰を認め、それにもかかわらず、私たちを見捨てず、イエスさまの血をもって贖い、救ってくださる主の愛を知るときはじめて、主を信じ主に身を委ねる信仰をもつことができるのです。

 

申命記 2章

「占領しはじめよ。その地を所有せよ。」

                     (申命記 2:31)

モーセは、エジプトを出てからのイスラエルの歩みを思い返して語ります。自分の歩みを思い返し、自分自身の真の姿を知り、自分を生かしてくださっている主の恵みを認めることが、主の民の歩みを確かなものとするのです。イスラエルにとって、不信のために約束の地に入れなくなってからの38年間は、進むべき目当てを見失い荒野をさまよい歩く暗黒の時代でした。しかし、主は、そのような時も含めて、この40年の間、彼らと共におられたのです。私たちが確信に満ちて意気揚々と歩んでいるときも、罪と恥の中にくず折れているときも、主は共にいてくださるのです。主は、荒れ野の放浪生活を離れ、約束の地に向かって歩み出したイスラエルに、エドムに手を出すな、モアブに敵対するな、アンモンに戦いを仕掛けるな、その地は彼らに与えたものだから、と言われました。私たちは、身近な人には自分が正しいと思うものを共有してもらいたいと思いますが、それぞれの人には主が与えられた人生があり、それをおかしてはならないのです。配偶者や子どもたちにたいしても、その人に与えられた人格の独立、それぞれの召しがあります。それを大切にし、善意からであっても、自分の思いをおしつけることのないようにしたい、と思います。イスラエルは、しかし、自分たちに与えられたアモリ人の地を、占領し始めよ、所有せよ、と命じられました。すぐには占領しきれなくても、所有するまで戦い続けるのです。私たちも同じです。自分を主のものとする戦いも、占領しはじめるところから所有するところまで進むのです。

 

申命記 3章

「彼らを恐れてはならない。あなたがたのために戦われるのは、あなたがたの神、主であるからだ。」

                      (申命記 3:22)

ヘシュボンの王シホンを打ちその地の住民を聖絶した2章の記録に続いて、3章ではバシャンの王オグを打ち住民を聖絶したことが記されています。聖絶とは皆殺しです。今の時代では考えられない残酷な行為で、どう受け止めて良いのかわからなくなりますが、これは私たちの霊的な戦いを示していると受け止めると納得できます。私たちは、イエスさまを信じて古い肉の人から新しい霊の人に造りかえられるのですが、一気にそうなるのではなく、霊と肉との長く厳しい戦いを経て、私たちは霊の人に造りかえられるのです。その霊的戦いにおいては、古い肉の性質は少しも残さず滅ぼさなければ、私たちはすぐもとの肉の人に引き戻されます。しかし肉は強大で打ち勝ち難く思えます。イスラエルも高い城壁や門のある要害を恐れ、アナク人やレファイム人などの巨人を恐れました。私たちも肉の力に抗しがたく思い、恐れます。しかし「彼らを恐れてはならない。あなたがたのために戦われるのは、あなたがたの神、主であるからだ」と主は言われるのです。私たちが肉と戦えば敗戦は必至ですが、主が戦ってくださるのですから勝利は確実です。それは肉を殺そうと努力する戦いではなく、主を見上げ、主の愛に満たされるところで、主の恵みとして経験できる勝利です。カナンでの戦いには、すでに土地を得たルベンとガドとマナセの半部族も加わります。モーセは加われませんが、主は彼に約束の地の全土を見せられ、彼は信仰によってその地を手にしたのです。

 

申命記 4章

「まことに、私たちの神、主は、私たちが呼び求めるとき、いつも、近くにおられる。」

                       (申命記 4:7)

約束の地カナンを前にして、モーセはイスラエルに語りました。彼らが主を信頼し、主のみことばに従って幸せになり、主のほかに神はないことを証するためでした。彼は、まず、「まことに、私たちの神、主は、私たちが呼び求めるとき、いつも、近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか」と語って、彼らが神の民とされ、主が共に歩んでくださっていることを民に確認させました。主がともにいて、親しく語りかけ、祈りに応えてくださることを確認することこそ、主の民の生の根拠です。私たちにとっても同じことが言えます。イエスさまを知らされ、主と共に生きる者とされている幸いを感謝し、主を愛し、主のみこころに従って生きよう、とする決意がまず必要です。主を信じ主に従う歩みは、目に見えるところに左右されず、見えない主を見つめて歩む歩みです。ですから神を形あるもので示そうとする偶像礼拝は排除されなければなりません。今もうわべの姿を見て物事の判断をする危険があります。私たちは常に目に見えない主に目を注ぐ訓練をしなければなりません。モーセは、イスラエルに、主に従うように命じましたが、彼らの弱さを知っていました。ですから、彼らが堕落し、偶像を造り、御怒りを買って、国々の間に散らされることを預言し、しかし、主はご真実で、お約束どおり、少数の者を残して、彼らが偶像礼拝の虚しさを悟り、悔い改めて、主の御許に回復されることを語りました。主のご真実こそ救いの根拠なのです。

申命記 5章

 

「主はこの契約を私たちの先祖と結ばれたのではなく、今日ここに生きている私たち一人ひとりと結ばれたのである。」

                       (申命記 5:3)

5章から26章まではモーセの第二の説教です。モーセは、まず、「主はこの契約を私たちの先祖と結ばれたのではなく、今日ここに生きている私たち一人ひとりと結ばれたのである」と語りだしました。イスラエルを主の御前に立たせ、誰かを介してではなく、自分自身が主と直面するようにさせたのです。私たちも、誰かに導かれて信仰に入るものですが、やがて、指導者によらず自分自身が主の御前に立ち、自分が信じる決断をするときに、本当に信じる者となるのです。その主と直面した時の経験がその人の信仰の原点になります。ですから、モーセは、彼らがホレブの山で主の御前に立ち、主の御声を聞いた経験を思い出させたのです。そのとき、主は「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である」と言われました。私たちにとっても、主との出会いの時を思い返すことが信仰生活の原点です。主が「わたしがあなたを贖った。」、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」、「わたしはあなたを愛している」と語ってくださったときのことを思い返すとき、どんなに大きな力が湧き上ってくるでしょうか。そこから、主の御心を行う力が与えられるのです。しかし、イスラエルは、直接、主から聞くのを恐れ、モーセに頼りました。しかし、主は、モーセには直接、語られました。それは主の喜びでした。主に従おうとする者でとどまらず、主がお喜びくださる者にしていただきたいと思います。

 

申命記 6章

「主は私たちの神。主は唯一である。」

                       (申命記 6:5)

モーセはイスラエルに、主のご命令を実行するように命じました。彼らが約束の地に入り、その地を所有し、そこで増え広がり、繁栄するためでした。主の民は主のみこころを行うとき安きを得、栄えるのです。しかし、主のみこころを行うようになるのは、主の愛を知り、主を愛し、主と一つになり、もはや自分が生きるのではなく、主が私の中にあって生きておられるのだ、と言えるときです。生まれつきのままの自分が主のご命令を聞いてそれを自分で行おうとしても、それは無理です。主が自分の中で生きておられると言えるのは、主の愛の語りかけを聞き、主を信頼し、主を愛し、主に首っ丈になっているときです。ですから、モーセは、「主は私たちの神。主は唯一である」と語り、「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と命じ、主のみことばを心にとどめ、子に教え、立っているときも座っているときも口に唱え、しるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置き、戸口の柱と門に書き記せ、と勧めるのです。主に集中し主と一つになることを求めよ、ということです。他の神々に心を向けるなどということは論外です。モーセがこう命じたときはそうできる道はまだ明らかにされていませんでした。しかし、イエスさまがおいでになり、十字架の贖いを成し遂げ、復活し、御霊をお送りくださり、御霊が私たちの内に生きてくださったとき、その道が開かれたのです。パウロは、もはや自分が生きるのではなく、キリストが私の中に生きてくださる、と言いました(ガラテヤ2:20)。

申命記 7章

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。」

                       (申命記 7:6)

モーセは、まもなく約束の地に入るイスラエルの民に向かって語りました。あなたがたが約束の地に入ると、そこにはあなたがたより強大な七つの異邦の民がいる、彼らを恐れてはならない、主は彼らを追い払われる、彼らを聖絶し、完全に縁を断ち、彼らの偶像を徹底的に断ち滅ぼせ、さもないとあなたがたは偶像に迷わされて、主にたいする純潔を失い、堕落し、滅ぼされてしまう、と。モーセがそう語る根拠は、彼らが神、主の聖なる民であり、主が彼らを選んでご自身の宝の民とされた、からでした。彼らが優れているからではなく、主の愛のゆえ、主のご契約へのご真実さのゆえでした。その地の民にたいしては厳し過ぎるのではないかと思えますが、その地の民の汚れた生活の影響を断ち切り、きよい国をつくるためには必要なことだったのです。結婚する若い夫婦には、「お互い、ただ相手のことだけを考え、他の異性に心を向けないようにしなさい。もっと立派な人、もっと賢い人、もっと美しい人がいたのに、あなたがひとり選ばれたのです。だから、連れ合いだけを大事にしなさい」と勧められます。同じように、主との交わりを確かなものにするには、主だけを愛することが大切なのです。その地の占領はすぐには成りませ。私たちの主との交わりが確かなものとなるのにも時間がかかります。「主が私を選んでくださったことを感謝し、主だけを愛し、主を求め続けます」と祈りました。

 

申命記 8章

「あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。」

                       (申命記 8:2)

モーセは、約束の地に入ろうとするイスラエルに語りました。「あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。」その歩みは、彼らの不信仰が明らかにされ、それにも関わらず、主が彼らを憐れみ、赦し、回復された歩みでした。そのことを思い返すのは、彼らが主を信じ、約束の地を所有し、栄えるためでした。主のご命令を守り、主の恵みを確実に自分のものとするためには、まず、今まで主がどのように導いてくださったかを思い返すことが必要です。自分自身がどんなに罪深く頑な者であるかをり、主がどんなに力あり恵み深いお方であるかを悟るためです。イスラエルの歩みには苦しいこともありましたが、それは訓練のためでした。また主は彼らに多くの賜物を与えてくださいました。しかし、それらの恵みの賜物に目が奪われて主を忘れたり、それを手にしたのは自分たちの力だとうぬぼれるようなことがあれば、たちまち祝福を失う、とモーセは、彼らに警告しました。自分の罪を認めてへりくだり、主の恵みを覚えて信仰を振るい立たせるためには、自分の今までの歩みを振り返り、自分の罪深さを知り、主の恵みを確認し、しっかりと主に目を注ぐことが必要です。モーセは命じました。「あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のように果たされるためである。」私も、主を前に置きます、御霊さま、お導きください、と祈りました。

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